愛郷---上信高原民話集(二十三)

はりつけ坂


 「なぁ、おんじい、なぁ、おんばあ、そんつぎの話はどうしただぁ。」

 「あぁ、そんじゃぁつぎの話をしてやんべぇ。」

 昔なぁ、百姓は生かさず殺さずって言ってなぁ、獲れた物の半分も年貢っちゅう今の税金でお城に持っていかれてしまったんだと。

 百姓は残った半分の作物で鍬や鎌を買ったり、食う物、着る物なんかの暮らしていく全部をまかなっていたんだと。

 この村は寒くてなぁ、米か獲れるのは赤羽村や中居村、今井村くれえのもので、たいげえの村は粟や稗を作ってやっと暮らしていたんだと。

 おまけにちょくちょく浅間山がはねて灰を降らすもんで、作物の取れねえ年もあったんだと。そんな年は山の栗やどんぐりやわらびの根っこを食って飢えをしのいでいたんだと。 米が食えるのは、お盆か正月か死ぬ時くれのものだったんだと。

 国の一番えらい将軍様は国中の殿様に年貢は百姓六分で殿様四分とせよとおふれを出して何とか百姓を救おうと考えたんだと。

 ところがこの村々を治めていた真田の殿様は血も涙もねえ恐ろしい殿隊で、今だって暮らすのにやっとだっちゅうのに、さらに年貢を高くして百姓四分に殿様六分とすると村々におふれを出したんだと。

 取立ても厳しく、年貢の治められねえ百姓は、年寄も子供も家中みんな役人に縛られられて大笹の登城の上り口の関所裏にある水牢に入れられたんだと。冬の寒い水牢で胸のあたりまで水がたまるんだと。だんだん水が増えて来るとお父とお母が子供を抱き上げて水に漬けねえようにしたんだと。子供の泣く声が一晩中水牢から聞こえておやげなかったと、関所の役人の兵馬ちゅう人が日記に書いて今も残してあるそうだ。

 百姓の中に飢え死ぬ者がつぎつぎに出て来たんだと。

 「このままでは、百姓はみんな死んでしまう何とかしなければ。」とちいせえ村の名主の茂左衛門さまが将軍様に訴えようと和尚さんに相談したんだと。

 「そんな事をしたら、たとえおまえが正しくても家中みんなはりつけになるぞ。」と村の和尚さんに止められたんだけんども、茂左衛門さまの心は決まっていたんだと。

 茂左衛門さまは村の和尚さんのつてを使ってわからないように江戸へ行ったんだと。

 上野寛永寺の和尚さんの手助けをもらいやっと将軍様に村の苦しみを訴えたんだと。

 将軍様は、さっそくお庭番という忍者を送り込み、真田の殿様を調べさせたんだと。

 真田の殿様は、茂左衛門さまが訴えた事を知り、手引きをしてくれた村の和尚さんを生き埋めにして、首を竹ののこぎりで切って殺しちまったんだと。

 将軍様のお庭番にも真田の忍者を差し向けて秘密がばれないように殺させようとしたんだと。お庭番達は真田の忍者にいっぺえ殺されたけれども、とうとう真田の殿様の悪事を調べあげて将軍様に報告したんだと。

 将軍様は真田の殿様を江戸で裁判にかけて、真田のお城の殿様と侍たちを全員辞めさせたんだと。

 そうしてやっと村々から厳しい年貢の取り立てがなくなったんだと。

 だけど、将軍様に訴えた者は全員磔にするちゅう昔の決まりで茂左衛門さまの家族は年寄も子供もみんなはりつけちゅう事になったんだと。

 茂左衛門さまと家族は生まれた村がよく見える故郷の坂の上ではりつけになり死んだんだと。

 村の衆は、そこに地蔵様を作り茂左衛門さまと家族に線香を供え祭ったんだと。

 今も、地蔵様に線香の煙か絶える事はねえんだと。

 それからなぁ。そこの坂を村の衆ははりつけ坂と呼ふようになったんだと。

 真田の殿様が年貢を取る時に使ったますは真田ますといって、一升ますが二合もでっかくなっているんだと。またなぁ、土地の面積を測る棒は、普通の棒より二十センチも三十センチも短くなっているんだと。

 今も、高崎の群馬の森の資料館に飾ってあるん

 「歴史と小説ちゅうのはうんと違うちゅう話だ。たまにやぁ、真田道歩いて沼田でも行って見るべえかな」


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