愛郷---上信高原民話集(二十八)

お地蔵さんが歩いてくる


 「なぁ、おんじい、なぁ、おんばあ、そんつぎの話はどうしただぁ。」

 「あぁ、そんじゃぁつぎの話をしてやんべぇ。」

 浅間山の麓の藤原の丘や黒豆の河原に溶岩樹型と言ってなぁ、浅間山が七百年前と天明の二百二十年前にはねて出来た、国の特別天然記念物ちゅう物があるのを知ってるんだんべぇ。あれはなぁ、浅間の熱い溶岩がでっけぇ大木の林を押して埋めて中の木が焼けて出来た穴で、火山の研究ではうんと貴重なもんなんだと。別荘が増えて、知らねぇでごみ捨て場に使った人も居たが、とんでもねぇ話だと、今数で百四十一個見つかっているんだと。

 昔、昔、その浅間山がはねる前の事なんだと。浅間山の山麓は、でっけえ木がいっぺいはえたすげえ林だったんだと。

 浅間山は昔、将軍の鷹を育てる山で御囲山と言い、鷹匠という役人が守っていたんだと。 

 その外周りの六里の原や南木の林は、近郷近在の村人が家を造ったり、橋を造ったりまた炭を焼く木を伐ったりするのに利用していた、入会山ちゅう大木の林だったんだと。

 浅間の入会山は上州側は大前村、芦生田村、大笹村、鎌原村、小代村、小宿村で、信州側は借宿村、軽井沢村、佐久の塩野村なんかでいつも境争いか絶えなかったんだと。

 鎌倉のころに、信州の武田光蓮と上州の海野小太郎の争いは軍隊も出たんだと。

 それで鎌倉の将軍が裁判を開いて境を決めたんだと。

 それでも材木を盗んだり、草刈り場で馬や人を捕まえたりして、ずっと争いが絶えなかったんだと。

 江戸時代になって将軍直属の代官が、小浅間からまっすぐ鷹つなぎ山までを境にすると決めて、石の境地蔵を境界に並べたんだと。

 「これで安心。」とみんな喜んだんだと。

 ところが不思議なことに冬が過ぎて春になると、境界にいた境地蔵が上州側に動いているんだと。一年、二年と冬が明けるたんびに境地蔵が上州へ歩いてくるんだと。

 信州の衆と上州の衆で「ああでもねえこうでもねえ。」とさんざん問答したけど、結局地蔵さんが境だと信州の衆に押し切られてしまったんだと。

 だから、今でもそこを押し切り場と呼んでいるんだと。

 上州は村々から集まって境地蔵が歩かねえようにどうしたらいいか相談したんだと。

 それで「お地蔵さん、歩いてこねえでくれ。」と丈夫な縄で境地蔵をしばったんだと。

 そしたらそれっきり境地蔵は歩かなくなったんだと。

 上州の衆は、境地蔵が歩いた土地をまんまと横領されたのでそこを横領地と呼ぶようになったんだと。

 今は、境地蔵を桜岩観音堂に集めてどこえも歩かねえようにお参りしているんだと。

 それからなぁ、最近別荘が増えてきたら、頭の良い別荘屋さんが横領地を王領地と名を変えて商売を始めたんだと。     ’

 とうとう横領地は名前まで横領されちまったんだと。

 「足がはえて旅に出た境地蔵もうんとあったんだと。今は金持ちの庭で休んでるべぇ。おめえも、はあ休めやぁ。」


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