愛郷---上信高原民話集(三十三)

万座のたけおんじい


 「なぁ、おんじい、なぁ、おんばあ、そんつぎの話はどうしただぁ。」

 「あぁ、そんじゃぁつぎの話をしてやんべぇ。」

 万座温泉にはなぁ、日進館の苦場っちゅう病気に良く効く温泉があってなぁ、近郷近在はもとより遠くから医者に見放された人や町でよくよく疲れちまったような人が最後の望みを託して牛や馬や駕籠に乗ったり、金の無え人は杖いっぽん頼りに歩いて万座峠を越えて入湯にやって来たんだと。

 こんこんと湧きだす熱い温泉に浸かって、一週間くらい入湯すると、そりやぁ不思議な事にたいげえの病気が治ったんだと。

 うそのようだが本当の話だ。

 この日進館の五代目になる人にたけおんじいちゅう人がいたんだと。

 頑張り屋でお客のもてなしも良くてなぁ、若い女衆には特に良かったんだと。

 ある時そりやぁ綺麗なトシと言う名の女の人が入湯に来たんだと。

 たけおんじいは今で言う一目惚れっちゅうやつで、毎日毎晩くどきにくどいてとうとうその人をお嫁さんにしてしまったんだと。

 器量が良くて頭も良く、それにたけおんじいのわがままにも「はい、とうさん。」といつも笑顔で相手をしてくれるトシのお陰で、たけおんじいは益々頑張って働き日進館のお客も増え、ついでに子供も増えていったんだと。

 その子らも何時の間にか大きくなり、やがてトシに良く似たお嫁さんをもらい、日進館万座温泉ホテルと名を改めたころ「なぁ、かあさん、そろそろ若い者に譲って、おら達は今まで出来なかった事をうんとするべぇ。二人で買物に行ったり、旅行したり、それから忙しくって一緒に飯も食えなかったから、これからは苦労をかけた分おらが飯を作って食わせてやるかんなぁ。」とたけおんじいが言ったんだと。

 いつもはちょっと贅沢な事を言うと「もったいない、もったいない」と言うトシも、この時ばかりはとびっきりの笑顔で「はい、とうさん」と言ったんだと。

 たけおんじいはトシの笑顔を見つめて五十年の苦労が遠い夢のように思えたんだと。

 リンゴの花が咲く六月たけおんじいはトシを横に乗せて二人で須坂へ買い物いったんだと。

 二人で走る信濃路はリンゴの花が咲き誇り、あまずっぱい香りが車にも漂って、いつしか車の中は新婚のような雰囲気になっていたんだと。

 ところが、空は梅雨の最中、何時の間にかなまり色の空にぶ厚い雲がたれ込み、雨がバシャバシャと地を刺すように降って来たんだと。「かあさん、気をつけて行こうや。」「はい、とうさん。」といつものように気の合った声をかけ合っていたんだが、

 突然雨足が激しくなったその時、「ドッカーン。」と音がたけおんじいの耳に鳴り響いて、一瞬時が止まってしまったんだと。

 どれくらいの時間がたったのか分からねえが、誰かの呼ぶような声に気が付いて目を開けて横を見ると、隣の席のトシが頭から血を流してぐったりしていたんだと。

 びっくりして、たけおんじいが「かあさん、かあさん。」て呼んだんだが返事がねえ。

 「かあさん、死んだらいけねえ。」「はい、とうさんと呼んでけれ。」と声にならねえ声で呼んだんだか、もうその時トシは天国の階段を一人で昇っていったんだと。

 「まってくれ、かあさん。」後を追うように、たけおんじいの心も付いていったんだと。

 それ以来たけおんじいは誰とも合わねえ、誰とも話さねえ人になってしまったんだと。

 心配した子供も親戚もただそんなたけおんじいを静かに見守るだけだったんだと。

 日進館に帰って一年ばかり過ぎたころ、たけおんじいは本当に久しぶりに苦湯に浸かってみたんだと。

 そうしたら湯気がトシの姿になり「はい、とうさん。」と言う声がしたような気がしたんだと。

 「かあさん、かあさん。」たけおんじいは苦湯に堪えていた涙をいっぱい流したんだと。

 でもその日以来たけおんじいに生きる希望が少しずつ湧いて来たんだと。

 晩年、たけおんじいは万座の湯に感謝して「現し世の 病める人々救わんと 神産みたもう万座の出湯」ちゆう句を作ったんだと。

 その句は万座の日進館や湯畑の良く見える高台に句碑として彫られ、いつまでもいつまでも万座に入湯に来る入々を見守っているんだと。

 「なぁ、交通事故は本当におっかねえんだ。おめえも学校へ行くときはくれぐれも車に気をつけて行くんだぞ。はぁ寝ろやぁ。」


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