Vision__(4)

個性が未来を切り開く


■すぐ怒るインタープリター

私はどちらかというと、よくトラブルを起こす方の人間である。「共生」のインタープリテーションを持ちネタとし、森林から生まれた東洋の思想---曖昧さと許し、穏やかで平和な思想を根源に持つナチュラリストのはずなのにである。社会的にはまだまだ若造である私は、いつも弱者の立場にある。その弱者の立場で良かれと思い、信念を持って築き上げてきたものを打ち砕かれそうになった時は、血相を変えて騒ぎ立てる。普通、このケースでは誰もが同様の感情になるであろう。しかし私の場合は、亥年(イノシシ)の性格が顕著に現れたタイプなので、普通の人より感情の起伏がだいぶん激しい。よほど許容範囲が狭いのか、はたまた職人気質なのか。ナチュラリストを名乗るものが笑止であるが、いつもは野ウサギのように非力で温厚に見える(と思う)のに突然イノシシどころか虎のように激しく吼え怒るので、その時は相当周囲を困惑させているようだ。反省文を書かされたこともそう昔の話ではない。(笑)

■変わった子供

しかしその私は子供の頃、人を負かすのが大嫌いだった。どうしてかけっこで人を負かさないといけないのか。理由が全く解らなかった。競争では勝ちそうになるといつも手を抜いてしまっていた。
また、幼少期従順だった私は、大人に言われるがままに机に向かってよく勉強していた。暗記が得意で真面目だった私にとって、学校のテストは簡単だった。答案用紙を返す際、点数の良い者から名前を呼ばれた。幾人かの教師達は点数を読み上げたりもした。クラスメイトの恨めしそうな視線を感じた。いじめられたこともあったがきっとそのせいだと思う。人は負けてしまった相手に別の分野で優位に立ち、バランスを保とうとする。やがてこの変な学校のシステムに絶望を感じるようになった。

■スキーの話

また、父親はスキーをこよなく愛していた。私も、人と争うのではなく、重力や反力という宇宙の法則・自然摂理との掛け合いを満喫できるこのスポーツが好きだった。しかし才能があると見込まれたのか、いつの間にかジュニアレーシングチームに入れられてしまった。好きなスキーもまた、勝ち負けの部類になってしまった。その時からなんてスキーとはくだらなく、つまらないものかと思った。もうスキーは嫌いになってしまった。レースがあるたびに順位は下がった。真面目な父親は焦り、私に対して連日愛の特訓を行った。当時のSAJの、膝下でこねくり回す形式ばかりのスキー教程を必死で教えた。猛特訓だった。それは、私の足裏に備わっているスーパーコンピューター…スピードやスキーの走りの微細な変化を感知するセンサーを麻痺させ個性を潰してしまうという、とても危険なレッスンだった。

一流の選手を育てようとするならば、その選手の筋力はおろか、筋肉・骨・関節の長さ太さつき方、好きな体術や筋肉の使い方、得意なコース取り・攻め方…そういったさまざまな個性を見極めた上で長所を伸ばすような指導をすべきである。本人が欲し向上したがっている身体機能や体術に導びいてやるのが指導者である。それができないのならば、教えてはいけないと思う。なぜなら選手は、体系化した理論を指導者が理解し指導することの何十倍の脳細胞や神経を使って、今まさに地球と向かい合い実践しているのだから。自分の身体のことは自分が一番よく知っている。「この動きはかなり効率が悪い」「身体の負担が激しすぎる」と感じた時は、身体生命を守り維持していこうとする本能が示した拒絶反応なのである。また、自分の身体とのキャッチボールがうまくいかない選手に必要な精神的なケアやカウンセリングはここでは別の話である。

しかし真面目な父親はSAJスキー指導教程に疑いを持たず、愛を持って私を救おうとした。そこにレーシングチームの講師も、また違った理論を持ちかけてきた(しかしこれが一番まともだった)。さらに北海道では学校授業でスキーの時間があり、一部の教師は訳の判らない指導の順序や愕然とくるスキー理論で指導してきた。そして、身体の拒絶反応…生命のサインを受け入れることが許されずに育てられた子供は、膝に水が溜まるようになっていた。10代にして、もはや5分以上の正座はできない膝になってしまった。

また自らも、身体の拒絶反応を無視して幼なじみの挑発のままに危険なジャンプをしたことがあった。案の定、左足首を骨折した。あんなに身体が恐怖で震えていたのに、強がって飛んでしまった。どうやら私はあのサインに忠実であれば、身体のほうは大丈夫な様である。

■森林の文化、砂漠の文化

私たちの日本では、台風や火山の爆発、がけ崩れなどの大きな撹乱が起こっても、温暖湿潤な気候が直ちに森林を成立させてくれる。数年で藪化し、10数年も待てば階層構造が生まれ、もうそこそこの森林らしくなってしまう。周囲も頭上も森林に囲まれた日本で育った祖先たちは、どの道を選んでも同様に木の実があり、獲物の動物がいて、魚もいた。そこそこ食べていくことができた。採ったものを誰かに分けてやっても良かった。また、どちらでも良いのだから二者択一を迫ったりしなかった。神も唯一である必要はなかった。それよりも森羅万象・山川草木・天然現象全てに神が宿り、感謝を捧げるほうが自然だったに違いない。日本には八百万の神々がいた。

これに対して中東の乾燥地帯で生まれたキリスト教やイスラム教は、砂漠ではオアシスへ至る道は一つしかなく、それ以外は全て死に至るという自然条件が背景となった。世の中の答えは全て一つで他は一切否定・排除する必要があった。砂漠の過酷な自然条件で人類が生きていくには厳しい戒律が必要だったのだ。万物は唯一の神が創ったものであり、神が認めないことは全て悪であった。さらに頼れるものは自分だけの砂漠では、常に大局を見通して自分が判断しなくてはならない。そして自分以外は信用できない、周囲に対して戦闘的な姿勢の思考になる。西洋の戦争の歴史は宗教の歴史であったことは言うまでもない。

日本人は今でも柔軟で、異色の文化を快く受け入れる許容がある。個性的なものの存在を許し認めるゆとりが感じられる。森林はそれぞれ個性的でオンリーワンな働きをする無数の生命が相互にかつ複雑に関係し合い成り立っている。森林から学んできた祖先が醸成した森林の文化を感じることができる。

しかし明治以来の欧米化、西洋文化の取り入れはどうもうまくいっていないように見える。今の日本では表面的な二者択一だけが優先され、砂漠−西洋型の長所である「大局を見定める」ことが全くできていない。その結果生まれたのは、ギスギスした競争社会と目先の利益だけを考えた自己中心の社会である。二者択一で出口(大局)はどっちでもいいでは悪いこと取りなのである。

■変わりゆく市場動向、規格化から個性化へ

団塊の世代の成長と共に消費も規格化されていった。彼らは同じように野球をして育ち、就職、結婚し、そして皆マイホームを夢見た。彼らの巨大な市場に供給するためには何でも一緒でないとうまくいかなかったのだ。同じものを流行らせて、規格大量生産でその需要を満たす必要があった。私には知る由もないが明治以来の日本の近代化政策には、そんな裏事情もあったのではないだろうか。そして協調性を重んじる彼らの価値観はそんな背景から生まれているのだと思う。

そして今はどうだろうか。新成人・新生児の減少、個人の時間の増大と個性の尊重。他人と同じことをやるなどまっぴらごめんの時代である。消費は個性化され、世に蔓延っていたこれまでの一括セールス手法はもうほとんど通用しない。ちまたではインターネットと心理学を駆使したセールス手法が流行っているが、団塊の世代を中心に多くは新時代市場に標準をあわせたセールス手法や発想の転換ができないまま、悪戦苦闘しているように見える。

■個性の自立と多様化

生命が生き残るために常に求められたのは、どんなに過酷な条件であっても、それを乗り越えられる勇気ある個性であり、僅かな可能性でも追求するための多様化であった。いま、ヒトに求められているのは、全く同じ道である。いまこそ慣れ親しんだ対立の概念を捨て、一人ひとりの個を自立させ、それぞれの個性を発揮し、多様化できる可能性を追求する時である。そして、自立し、多様化した個人は、その力を発揮して、地球と生命が調和の取れた一つのシステムとしての集合体となり、そこで個人と集団が融合できる新しい社会作りを目指すべきときがきたのである。もはや過去の遺物となった農耕牧畜時代の価値観は、不要である。個が自立し、多様化できるような生き方にこそ、新しい価値観を創造できるチャンスがあるのだ。『新・生命の創世記 いのちと塩』 −佐藤稔/佐藤秀夫−

■生命40億年の歩み

さらに、NHKサイエンススペシャル『生命40億年遥かな旅』(1994〜1996)には、生命の歩みが以下のように要約されている。

---およそ40億年前、最初の生命が生まれた頃の地球は、硫化水素や塩酸が溶け込んだ灼熱・猛毒の海だった。その海の中で、硫化水素をエネルギーとするバクテリア、さらに光合成をするバクテリアが生まれた。ここで初めて地球に、酸素が生命活動の副産物としてもたらされた。新しい気体・酸素の出現。身体を酸化させ死に至らしめる危険な物質であった。その酸素にも生命は果敢に挑戦していった。やがて、硫化水素から酸素にエネルギー源を変えるものが現れた。好気性バクテリアの出現である。するとエネルギー効率は硫化水素に比べてなんと19倍にもなった。

この好気性バクテリアは、その運動能力で他のバクテリアを獰猛に食い漁っていた。しかしいつの日か、餌であったはずの嫌気性バクテリアの柔らかい膜に包まれ取り込まれてしまう。そして宿主に酸素のエネルギーを提供するはめになった。ミトコンドリアと真核細胞の誕生である。まず真核細胞の誕生が、現在までの生物の飛躍的な多様性の開花を可能にした。

---約5億年前、私たちの祖先の魚はアゴすらなかった。海底の泥を漉して有機物を得る、とても非力な存在だった。当時の海は炭酸カルシウムの硬い殻をもつオウムガイに支配されていた。オウムガイはジェット水流を噴出する遊泳能力で、原始の魚に襲いかかった。魚たちは命からがら河に逃げた。しかし、淡水である河では、海と同じからだの仕組みでは生きていけない。浸透圧の違いから体に水がどんどん浸入し体が破裂してしまうのだ。魚たちは鱗や甲羅を発達させたが、さらに腎臓を発達させてカバーする必要があった。実はその腎臓は、オウムガイとは違った骨格、リン酸カルシウムの濃度を調節する器官でもあり、もう養いつつあったものだった。

そして魚たちは見事に河に適応していった。河は、捕食者も、食料の競争相手もいない、まさに楽園であった。しかし河は海に比べて流れが早い。この流れの中で自由に泳ぎまわるためには強い背骨と筋肉が必要だった。背骨を持つ最古の魚・ケイロレピスは3億9000万年前に登場している。

実は骨の発達には他の理由もあった。河の中のカルシウム濃度は絶えず変化している。炭酸カルシウムと違ってリン酸カルシウムの良いところは、カルシウムの多い時には骨として蓄え、不足した時には骨からカルシウムを補給できるところだった。骨を持つことで魚はカルシウムを安定して供給できるようになったのだ。また、生命にとって重要なミネラルはカルシウムだけではない。マグネシウム、リン、硫黄、亜鉛…。海に溶け込んでいるあらゆるミネラル。それらを全て含んでいるのが、脊椎動物の骨なのである。

---約4億年前、植物はすでに陸上に進出していた。浅瀬で藻やコケなどを食べていた大型の魚たちは、頭上にまだ手付かずの緑が生い茂っていることをよく知っていた。植物の多い浅瀬で藻を掻き分け進んでいた彼らは、鰭を厚く頑丈なものにしていった。そして陸上に上がって横たわっても肺や心臓が潰れない、頑丈な肋骨を有するほどに進化していった。海から河へ逃げ込み、そして陸へと1億年かけて挑戦し続け、最初に陸に向かった生命。このイクチオステガの偉大な一歩により、私たちに繋がる動物の歴史は始まった。

私たちは背骨をもつこと、そして大切な海を体の中に持つことによって、陸上で生きていくことができるようになった。私たちがこの世に生まれるとき、子宮という海の中で、まず、宿ったばかりの胎児には魚のえらのようなものが現れ、続いてひれのようなものが現れ、それがはっきり割れて5本の指となる。そして出産直後の産声は、初めての空気呼吸の証であり、まさに子宮という海からの上陸の瞬間なのである。

---先に地上に進出していた植物は、精子が水の中を泳いで造卵器にたどり着くことで生殖が行われるコケ・シダ類であった。まずは水辺に緑が広がっていった。シダ植物らは平面が飽和状態になると、光を求めて競うように上に伸び、自らの重さに耐えられる「幹」を発明した。水辺に高さ30mもの森林が出現した。しかしそれでも、水辺の世界から離れることはできなかった。…地上には、その奥に広大な岩と砂だけの大地が広がっていたのだった。

やがて、シダ植物の中に種を持つものが現れた。種は、胞子と違って乾燥した大地でも半永久的に生き続け、雨を待って芽を出す。さらに生殖方法も、精子から花粉になった。花粉は水の中ではなく、空気中を風に乗り、めしべにたどり着くことができる。裸子植物の出現である。裸子植物は陸の奥地を目指し世界中に巨木の森が広がった。当時の大気中に含まれる二酸化炭素は現在の10倍以上だった。やがて2倍ほどの濃度におちついた。

一方、陸に上がったイクチオステガの子孫たちは、手の届かない高いところに手付かずの大量の餌である葉が青々と茂っているのを知っていた。そしてその餌を食いつくす為に巨大化していった。---巨大恐竜時代の幕開けである。さらにこの時すでに、昆虫たちは動物よりも先に陸上に進出し、植物を餌としていた。生産者である植物は、ジュラ紀の生態系全てを支えていたのである。しかし恐竜たちの大繁栄の中、報われることのないように見えた植物も、実はしたたかに革命の準備を進めていたのである。

その植物界の革命は白亜紀に起こった。花をつける植物---被子植物の出現である。栄養価の高い花粉をつくり湿らせることで、コガネムシたちは次の餌場・めしべにすんなりと花粉を届けてくれるようになったのだ。植物たちは昆虫に訪れてもらうため盛んに葉を変化させ、緑一色だった地球が黄色や赤、白といった鮮やかな色彩となって世界に広がっていった。やがてさらに魅力的なご褒美、蜜もつくるようになった。また裸子植物が受精に半年から一年もかかるものが、3分から24時間で受精を完了させてしまう。繁殖のスピードも桁違いに速かった。そしてもう一つ重要なことは、種に果肉の部分をつくり、原始哺乳類に食べさせ、種子散布者になってもらったのだ。花粉・花の形・果実共、現代の花に見られるように特定の種に対して都合の良いように進化し、緊密な関係を作っていったことであろう。赤道で生まれた花をつける植物は爆発的に進化し、裸子植物を駆逐していった。

一方、針葉樹の巨木の森を食べつくす為に大きくなった恐竜は、被子植物を食べることができなかった。これは、仮にササが全滅しそうだからと言って、パンダが食物のササを別の餌に転換できずに絶滅してしまうのとよく似ている。1億年以上も君臨した最強の地上生物は、もはや生きる道を変える事ができなかったのである。植物と昆虫と哺乳類の三者が生んだ、互いに繁殖を助けあう生態系の中から恐竜は排除されていった。植物は、自分を食べるだけの恐竜に都合の良い進化はしてくれなかったのである。そして6500万年前に巨大隕石が衝突し、その後の天変地異に生き延びられるほどの勢いは、もう、残っていなかったのだ。

---巨大隕石衝突後、長い核の冬が明け、植物はまたすぐに森林を形成した。生き延びた哺乳類たちは、恐竜のいない世界で思い思いに進化していった。特に森林の立体構造を巧みに利用したサル類は、豊富な食料に恵まれ、ライバルのいない森林の樹上で栄えていた。

しかし500万年前ごろ、アフリカ南北を分断するような激しい火山活動や地殻変動が起こった。グレート・リフト・バレー(アフリカ大地溝帯)の形成である。場所によっては標高4,000mの山脈となり、東西の気候環境が著しく変わってしまった。大西洋の湿気を含んでいた風がグレート・リフト・バレーの山脈にぶつかり、雨となって西側に流れてしまう。そのため東側は乾燥し、熱帯雨林を草原に変えていってしまったのである。

大きな環境の変化によって森という「楽園」が崩壊しはじめたとき、そこに住んでいたサルたちは、生き残るために重大な選択を迫られた。それは、消えていく森を追って移動するか、あえて森を捨てて草原で暮らす道を選ぶかという選択だった。そして、そのときに森を捨てる「決断」をしたサルが、私たち人間の祖先だったのである。一方で、その時まで人間と同じ進化をたどりながら、縮小する森に最後までしがみついていたサル、その子孫は現在のチンパンジーとなった。直立歩行で草原に出て行った私たちの祖先は、やがて空いた手で道具を作っていく。前を向くことで喉の構造が変わり、言語を使えるようになった。下から支えられるようになった脳はとても大きく発達した。そして狩猟採集時代を経て、農耕牧畜から始まる、地球システムから完全に逸脱した人間がここに生まれたのである。

■個性が未来を切り開く

イクチオステガが陸上動物最初の第一歩を踏み出すことができたのは、どんな苦境にも絶対に諦めない、どこまでも新しい世界に挑戦し続ける勇気ある個性であった。そしてその個性は、生命を育んできた故郷の海(骨)を体内でしっかり蓄えていたからこそ発揮されたのだ。
---チンパンジーと人間の祖先が別れた500万年前のあの日、安全な森から危険で新しい環境、「草原」へ直立歩行で出て行ったことから、今日の人類は文明と繁栄を築き上げた。しかしその直立歩行も、森の中の生活で予行練習されていたものであったという。

生き物は生命・経済活動共に、空白のニッチを埋めようと挑戦する不思議な力を秘めている。挑戦をやめるということは進化をやめるということであり、そして挑戦をやめた時から、次の世代に取って代わられるのは宇宙の摂理なのである。勇気を持って自分以外と交流し共生を模索すること。過酷な環境に絶対諦めずに挑戦し続けること。対峙する新たな、そして空白のニッチには、自らの人格行動を形成してきた歴史を誇りを持って背負い、勇気を持って個性を存分に発揮すること。胸に刻んで生きていこう。

規格化された社会の中では、突出した個性は生まれない。また個性が認められない社会では可能性すら潰されてしまう。「温故知新」でみる地球生命40億年の歴史は、常に突出した勇気ある個性が未来を切り開いてきた。そしてそこに周囲を巻き込んだ新しい共生システムを創り出してきたのだ。新しい共生システムを得た生命は、とこしえの繁栄を許されていた。そう、挑戦し続ける限りは。

それが前の章で述べた「個性の自立と多様化」ということなのであろう。地球システムから逸脱してしまった人類が生き残っていくためには、農耕牧畜時代の延長線上にある現代の文明社会のあり方ではもはや未来がないことはあからさまである。

突出した個性を育むための土壌づくりも大事なことである。教育土壌、地域社会土壌、そして会社組織にも今やその土壌が求められている。未来を切り開くヒーローが誕生するためにも、私たちはその土壌を整備していきたい。

個人と社会が融合する新しい社会を構築するためには、私たちは大いに個性的であるべきなのだ。


参考文献


(2007年4月)

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