浅間山

日本百名山

※このページの内容はほとんど間違っています。でたらめな内容ですが、昔作ったページの記録として、このままにしてみました。そのうち、きちんと作り直すかもしれません。

■成長を続ける活火山

上信最高峰の山、浅間山(2568m)は複雑な形成史をもつ複合火山です。黒斑火山(安山岩の成層火山)、仏岩火山(溶岩流と小浅間溶岩円頂丘・デイサイト・約2万年前)、軽石流(デイサイト・3,000年と11,000年前)の順に生じ、数千年前から前掛火山が形成され、山頂部の釜山は現在も活動中です。釜山の山頂火口(長径東西500m・ 短径南北440m)内の地形、特に火口底の深さは火山の活動の盛衰に応じて著しく変化します。山頂火口は常時噴気しており、西山腹の地獄谷にも硫気孔があります。噴火は爆発型(ブルカノ式)噴火で、火砕流(熱雲)が発生しやすい特徴があります。1108年、1783年には溶岩流をも発生させました。噴火の前兆現象として火口直下に浅い地震(B型地震)が頻発することがあります。

■天明3年浅間焼け

天明3年(1783)7月8日の大爆発は、人類有史以来最大の火山被害となり、火砕流や岩なだれにより多数の死者が出ました。この噴火の際の死者の数は資料によりかなり幅がありますが500人から20000人ということです。(理科年表では1151人)
特に麓の鎌原地区は岩なだれ(秒速100m)により瞬く間に埋没。463名の尊い命が奪われました。小高い所に建つ観音堂は、15段の石段とともにこのとき唯一残った建物。ここに逃げた93名の命は奇跡的に助かり、その後生き残った人々で家族を作りなおし村を再建していきました。この観音堂は「鎌原観音堂」といい、現在も厄除け観音として厚く信仰されています。その後大量の溶岩流を数回発生させ、現在の「鬼押し出し園」の奇勝を形成しました。
また、この大噴火は、多量の火山灰を関東一円に降らし、農作物にも大きな被害を与えました。浅間焼けの2月前アイスランドのラキ山も大爆発を起し、この二つの火山から空高く噴き上げられた細粒の火山灰は北半球をすっぽりと覆い、太陽光線をさえぎって気温が低下し、日本では天明の大飢饉に とそれに続く田沼意次の失脚(3年後)、ヨーロッパでは冷温と凶作の社会不安から、6年後のフランス革命に結びついてゆくのです。

■アサマの意味と神話

この「アサマ」というのは、青森の浅虫、伊豆の熱海、九州の阿蘇などと同語源で、火山のこととされます。この浅間山をご神体とする浅間神社の御祭神は岩長姫(いわながひめ)で、富士山をご神体とする浅間神社の御祭神・木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の姉にあたります。
今から180万年ほど前(と日本書紀に書いてある。つまり新生代第四紀が始まる頃。つまりほんとに人類という種が生まれた頃!)、天から邇邇芸命(ににぎのみこと)という神様が降りてきて、日本の国の主になった時、木花咲耶姫と出会い見初めて結婚したいといいます。すると姫のお父さんの大山祇神(おおやまずみのかみ)は天の御子様でしたら姉の方も一緒にあげましょうと言って、岩長姫も付けて嫁にやりました。
しかし岩長姫の方は妹ほどきれいでなかったので、邇邇芸命はお姉さんの方はいいです、といって返してしまいます。すると大山祇神の神は残念そうにいいました。「岩長姫も一緒に娶っていればあなたの子孫の人間たちは岩のように長い寿命を持つようになったでしょうに、木花咲耶姫だけでしたら、花のように短い寿命になってしまいます」と。人間が数十年で老いて死んでしまうようになったのはこのためなのだそうです。

■浅間山が造った旧嬬恋湖?

現在の吾妻川は長野原・中之条・子持村を抜け利根川となり太平洋に流れていますが元々は北軽井沢から佐久平を抜け千曲川に合流し日本海に流れておりました。12万5000年前に新生火山である浅間山(当時は黒斑山)が隆起したことで、南流していた古吾妻川がせき止められ嬬恋村、六合村、長野原の標高1000m地域は全て水没しました。
当時の浅間山は現在よりも500mも高い3000m以上の山で、富士山のような美しい姿を原始嬬恋湖に映していました。祖先らは湖畔に生活し、山女魚や岩魚を漁獲しナウマンゾウやオオツノシカ等を狩猟して生活していたのでしょう。やがて日本全土に起った地殻変動で川原湯の岩脈の亀裂から原始嬬恋湖の水は流れだすことになります。現在の美しい吾妻渓谷は8000年の年月を得て形成されたものなのです。

春の「逆さ馬」。田植えの合図です
夏の浅間山全景
秋の浅間山・六里ヶ原より
冬の夕焼けは一級品

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