「なぁ、おんじい、なぁ、おんばあ、そんつぎの話はどうしただぁ。」
「あぁ、そんじゃぁつぎの話をしてやんべぇ。」
運動会で赤勝て白勝てってはちまきをして競争するだんべぇ。これにはちゃんと訳があるんだなぁ。
源平の合戦と言って、天下分目のすごい戦いがあったんだと。その時にそれぞれ源氏は白で平家は赤の旗印で戦った事から、競争は赤白に分かれて戦うようになったんだと。
嬬恋村はなぁ、その時の戦いに敗れて逃げてきた、木曽義仲の残党とそれを追って来た、将軍源頼朝との話が今も地名や昔話になって残っているんだなぁ。
今から話してやるべぇ。
まだ村の名前もねえ遠い昔になぁ、ここは三原野って呼ばれていたんだと。今の三原じやあねえんだ。浅間山の麓の六里が原と長野原と河原湯の三つの原で三原野っていったんだと。また浅間山の麓なんで三原野を浅間野とも呼んでいたんだと。
ここはなぁ、都を守る衛士という武士の軍馬を育てるでっけぇ牧場だったんだと。
そしてその長官に望月氏や海野氏ちゅう人が馬を育てていたんだと。
わしらの昔の者は、この浅間野で牧場の馬を育てていたんだと。
源平の合戦も終わり、木曽義仲の残党がふるさとの信州へ落ちのびようとして、この浅間野にもいっペえ逃げて来たんだと。
将軍源頼朝も千人の武士を連れ、その残党を追って、ここででっけえ巻狩をしたんだと。その巻狩には何百人もの百姓が勢子としておてんまに駆り出されたんだと。
残党を探すのと食料確保の為に浅間山の六里が原で一月も二月も巻狩をしたんだと。
巻狩は、獣や烏を追い出す者、逃げねえようにな網をはる者、馬に乗ってり弓矢で射つ者とてんでに役割を決めて「わぁわぁ。」と狩をしたんだと。将軍はこの巻狩を砦のある見晴らしの良い山から眺め、桟敷を打って号令をかけたんだと。だからこの山を桟敷山と呼ぶようになったんだと。
それから巻狩の間に将軍は、家来の腕のなまるのを心配して吾妻山の大岩に沢向こうの遠くから弓を射る遠矢をさせたんだと。岩を的にしたんでこの大岩を的岩と呼ぶようになったんだと。
また、その吾妻山の麓や茨木山それから干俣の原でも狩をしたんだと。
干俣で陣を張っての話は、前にもしたがなぁ、二又の川を干して将軍にやまめを献上してもらったのが干川ちゅう名字で、川の又を干したから干俣ちゅう地名をいただいたんだなぁ。干された川を音無し川と呼び、また陣で将軍か蹴鞠をして遊んだんで、陣の後にここに神社を作り蹴鞠神社と名付けたんだなぁ。
それから将軍の何百頭という馬を飼う場所を干俣川と吾妻川のぶつかる所が水も草も豊富だったんでそこに馬小屋を幾つも作り馬を飼ったんだと。うまやをいっぺえ作ったので大厩と呼んだのが今の大前の始まりなんだと。
大厩から砂井にかけての川で巻狩に行った馬を洗った辺りを馬洗い川と言い、水を汲んだ所が馬洗いの井戸って言うんだと。また馬洗い川のもとに温泉が湧き出ていて、怪我をしたり病気になった馬を入れて治した馬洗いの湯ちゅうのもあったんだと。
大厩から六里が原に行く道は馬踏道と言って今も地名が残っているんだと。
それからなぁ、将軍は陣で寝泊りする為に、わざわざ鎌倉から組み立て式のあいざわ屋形という家を持ってきて陣に家を作ったんだと、それが応桑村の御所平ちゅうとこなんだと。この御所平の将軍を守る為に、一番身近くにいたのが騎兵隊で御所平の近くに泊まったんだと。そこが今の与騎屋(与喜屋)なんだと。
他の家来達はすこし離れてそれぞれがふた手に分かれて泊まった所を借宿って言うんだと。今でも両方に借宿ちゅう地名が残っているんだと。
身分の低い家来達は将軍の後を守るように陣を作って泊まったんだと。そこを小宿、小屋(代)って言うんだと。
勢子に集められた、百姓はかわいそうに宿も無く、木の枝や草で屋根を作ってそこで野宿をしたんだと。
将軍は、御所平の近くの大きい原っぱで狩りを楽しんだと。そこが大家原ちゅう所なんだと。
将軍の狩はぜいたくで、まず、勢子か獣が逃げないように網を張って、「わあわあ。」と大勢で坂へ追込むのを、坂の上から眺めそれから馬に乗って狩をしたんだと。
網を張った所を網張、獣を追い込んだ坂を木戸坂、将軍が眺めた坂を物見坂っちゅう名がついたんだと。
またなぁ、昔の狩には鷹を使って狩をする方法もあってなぁ。鷹匠って言う狩の者達もいっぺえいたんだと。この鷹をつないだ山が鷹つなぎ山なんだと。
将軍の軍が移動する前には、必ず先発隊がいて安全を確認して印を付けて置くんだと。 将軍の印は卍の印だったんで、軍が越えた峠を卍峠と呼んだんだと。またすごく大勢の人と馬だったんで、万騎峠とも呼ばれているんだと。
将軍は浅間野の巻狩も終わりに近づくと旅の疲れをとる為に草津村の温泉に入湯したんだと。将軍が入湯したのか御座の湯で、家来が入場したのが白旗の湯ちゅう名で今も残っているんだと。
長い巻狩を終えて、将軍は鎌倉へ帰って行ったんだと。
木曽義仲の残党はその巻狩に追われ、散りじりばらばらになったけれども、またいつの日か木曽家の復活を願って武術に励んでいたんだと。
「木曽義仲の話はまた後で話してやるべぇから、今日ははぁ寝るべえや。」