松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十一)

花開く“草莽の文化”

▲十日ノ窪発掘風景(昭和56年)

 草莽とは、草の生い茂った所、転じて民間とか在野をも意味する。歴史の概説書などによれば、18世紀の後半、商品流通の活発化に伴う商人たちの移動によって、地方の在野町や郷村に多彩な文化が勃興した。これを“草莽の文化”と呼んでいる。

 そして、この草莽の文化の荷担者は、主に、金と暇に恵まれた旦那衆であり、一般大衆は、貧しいが故に、この文化の荷担者にならないばかりか、その恩恵に浴する事も少なかっただろうと説明している。ところで、18世紀後半以降の一般大衆は果たしてこの草莽の文化にも見放されていたのだろうか。

 昭和54年、56年に発掘調査された、埋没村落「鎌原村」の“十日ノ窪の埋没家屋”は、その場所、家屋の規模・形状などからして、決して特別の身分や階層の家とは思われない。しかし、装身具や食器などの什器、貨幣や判子・秤、豊富な鉄製農具、筆や墨の文房具、そして、小仏像など信仰に係わるものなど、さらに趣味や娯楽に関するものなどが、三百数十箇所にわたって2,000点もの発見があったのである。

 それは、われわれがこれまで予想していたことより、豊富であり、かつ優品が多く、これまでの学問的常識をはるかにこえるものであった。

 その一例にビードロ鏡(ガラスの鏡)がある。江戸時代の考証学者山東京山は、その著『歴世女装考』で、ビードロ鏡を口絵で紹介して、「これは吾家の宝」と記している。おそらく、その頃、ビードロ鏡が江戸の市井に出回り、富裕な者たちに珍重されていたのであろう。それを前後にして、ここ鎌原村でもビードロ鏡が使用されていたのであろう。

 また、茶釜や茶碗の出土は、抹茶の飲用もすでにあり、“茶の湯”の風習を思わせるものがあるのである。

 ここに、天明3年当時の鎌原村は、宿場的村落とはいえ、浅間山録の標高900メートル前後の地に在って、江戸や上方の都市文化が伝播し、草莽の文化が開花していたのである。そして、その荷担者は、必ずしも金と暇のある旦那衆ではなく、この地に生活の基盤を据えた一般民衆とみられるのである。

 鎌原村から発見された品々は、浅間山北麓の江戸時代後期の、民衆の生活文化の実態を示すものとして貴重である。

※この記事は広報つまごいNo.604〔平成15年(2003年)3月号〕に記載されたものです。

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