松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(百六)

終わるにあたって

 芭蕉が、門下の許六に贈った送別の言葉に、次のようなものがある。

「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ。」 (柴門の辞)

 これは、もとは空海の教えであって、本来は書道について述べたものである。芭蕉は、これを引用して、俳諧の道においても古人の残した言葉づかいや題材などよりも、その背後にある“こころ”を求めよと言ったものであろう。

 嬬恋村は、山奥山間に位置している。そのため、豊かな自然があり、その自然や社会環境に即した歴史が展開した。

 事実、縄文時代にあっては、今井東平遺跡にみられるような、感性豊かな素晴らしい土器が、あるいは企画性に富んだ住居跡が発見されている。これらは、関東平野や長野県を中心とした中部地域の、さらに信濃川流域の縄文文化を積極的に吸収したことによるもので、群馬県下においても希にみる卓越した地域文化を形成している。

 また、中世にあっては、北陸地方中心に盛んとなった「白山修験道」が波及し、宗主家下屋氏による政治・宗教的社会が形成され発展した。万座温泉の礫石経、華童子の宮跡、三原出土の経筒、今宮白山権現、熊野神社の奥ノ院などは、その盛況を物語っている。

 さらに、江戸時代にあっては天明3年の浅間山の噴火によって埋没した鎌原村では、江戸や上方の文化が取り入れられ、衣食住など各方面にわたって、われわれがこれまで考えていたより、遥かに豊かな“草莽の文化”(民間の文化)が開花していたのであった。

 いかに山奥山間の厳しい自然環境にあっても、その他が、政治・経済・社会、そして文化的に必要とあれば、どんな険しい山波も、そして厳しい気象条件も、人は力強く克服して生活を切り拓いていったのである。

 本シリーズは、ただ単に嬬恋村の自然と文化を知ってもらおうとするものではない。嬬恋村の自然と文化を通して、そこに住んだ人々が「何を求め、何を考えて生きてきたか」を知っていただきたいのである。

 ところで、自然や文化は自らそれを語ろうとはしない。現在、そこに住むものは、関心をもって手順をつくして語りかけた時にはじめて語りはじめるのである。

※この記事は広報つまごいNo.649〔平成17年(2005年)4月号〕に記載されたものです。

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