松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(百五)

キャベツ栽培の展開

▲浅間山麓のキャベツ畑
「写真で見る ふるさと嬬恋のあゆみ」より

 嬬恋村の発展に大きく貢献した戸部彪平氏は、嬬恋村は、「 …略… 男子ハ馬方トナリテ諸物資ノ運搬ヲナスモノ多ク、農業ハ女子ガ従事スル有様ニシテ …略… 農業ノ実収ハ実ニ微々タル有様ナリ。」と記している。

 こうした嬬恋村の中にあって、最も冷涼な気象条件と、荒蕪地の多かった田代地区は、その典型と言えるだろう。しかし、このような厳しい自然環境と、困難な生活状況の中から、田代区の“活力ある村づくり”がはじまるのである。

 昭和7年、森田啓次郎さんを含む7人の青年は、当時、キャベツ栽培の先進地とされる、岩手県の沼宮内(現岩手町)に、キャベツ栽培と出荷方法を学ぶため研修に出向いた。帰郷後、直ちに10戸を1組とした、収穫・出荷などの共同農法に取り組んだ。

 他方、上田市の青果商青木彦治は、田代区がキャベツ栽培の適地であることに目をつけ、農家に種子や資材を貸付、収穫物を買い取るいわゆる特約による産地の形成に尽力した。

 時に、村を東西に貫く県道が鳥居峠を経由して長野県に通じる道に改修され、トラックによる物資輸送が容易となった。

 このため田代区で生産されたキャベツは、遠く名古屋や京阪方面まで運ばれ、高い評価を受けるようになった。

 こうしたこともあって、田代区におけるキャベツ栽培は急速に栽培面積を拡げ、昭和10年には28ヘクタールに、15年には57ヘクタールに達し、キャベツ栽培はここに定着した、しかし、日中戦争が始まると、戦時下の統制を受けて衰退した。

 戦後、再びキャベツ栽培は盛んとなり、特に、東京の市場に出荷されるようになるとその生産量は増加し、25年の作付け面積は158ヘクタールとなり、嬬恋村の基幹農作物となり、30年の栽培面積は、40ヘクタールとなり、42年には1243ヘクタールと急増した。

 ところで、こうしたキャベツ栽培の展開にあたって、大きな問題に直面した。それは市場価格の変動による損失と、長年にわたる集中作付けによる障害の発生であった。しかし、これらは「価格差保障方式」の採用と、パイロット事業による耕地拡大によって、何とか克服した。ここに、嬬恋村は“夏秋キャベツ日本一”の名声を博したのである。

※この記事は広報つまごいNo.648〔平成17年(2005年)3月号〕に記載されたものです。

(百四)嬬恋村の近代化遺産 へ   (百六)終わるにあたって へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る