松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四)

明礬の稼ぎ

「明礬屋」の屋号をもつ
大前の滝沢ときさん宅

 明礬は、白色無定形の粉末でものを引き締める性質があり、毛皮をなめしたり、止血剤や染料などの薬品として、広く用いられている。嬬恋地域はその産地で、JR万座鹿沢口駅南の切り立った断崖の断面に、褐色がかった横縞状の薄い層が見られるが、それが明礬を含む層だと聞く。また、鎌原地内には明礬沢と呼ばれる沢があり、子供の頃、この沢で岩肌に付着した明礬を採取し、文字のアブリ出しなどで遊んだ経験者も多い。

 大前の明礬屋の屋号をもつ滝沢ときさん宅の祖先藤吉が明礬採掘の請負を始めたのは、江戸時代の後期にあたる寛政9年(1797)のことであった。依頼滝沢家は伝左衛門−米吉と明治の初めにいたるまで、明礬採掘の請負に精を出す。この間安政4年(1857)の年間出荷量は50駄にも及び、その販路は群馬は勿論、埼玉県、山梨県、長野県、新潟県にもおよび、上州における代表的な明礬屋としてその地位を固めた。

 しかし、明礬採掘の請負事業は、相場の著しい変動や、幕府の会所による統制などで、その経営は決して楽なものではなかったらしい。

 ところで、安政4年大前村の古文書によれば、大前村の一カ年の産物などの売上高は、

明礬  = 200両位、
湯花  =  10両位、
松板類 =  20両位、
下駄類 =  30両位、
木鉢類 =  10両位、
和薬類 =  10両位、
繭   =  80両位

とあり、合計360両のうち、明礬の稼ぎが56%を占めている。いかに明礬が主要の産物であったかを示している。

 江戸時代の後期、嬬恋村地域において、明礬を稼ぎとする家は、大前の滝沢家だけではなかった。鎌原や大笹にもそれを家業にしていた家のあったことを古文書は伝えている。嬬恋村にとって、明礬稼ぎの経済的効果は決して少なくなかった。

※この記事は広報つまごいNo.546〔平成8年(1996年)10月号〕に記載されたものです。

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