松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(五)

ヒデのあかり

十日ノ窪出土のヒデ針

 住居内における炉の焚火は、暖房や食物の加工に重要な役割を果たしたが、屋内のあかりとしても重要であった。炉の焚火から、あかり専用の火が分化したのは何時の頃か明らかでない。しかし、炉で焚いた木々の経験から、樹脂の多い松の木、特に根株が長時間明るく燃えることに気付き、これをあかり専用の燃料(ヒデ)とするようになった。ヒデは、手頃の自然石の上部を彫り窪めて作った「ヒデ鉢」で燃やして、屋内のあかりとした。

 昭和56年、埋没村落「鎌原村」の発掘調査の際、十日ノ窪の埋没家屋からは、三百数十地点、二千点を超す生活用品の出土があった。この中に見慣れない三点の石製品があった。内二点は、その上部を比較的粗く碗状に掘り窪めたものであり、他の一点は、それらを載せる台とみられた。その用途は、粗製である事や、煤などが付着している事、さらに碗状に彫り窪められた底部には、硫黄の小塊が残っていたことにより、食器などとは異なり、火に係わる道具と考えていた。そして、その後の検討により、これが「ヒデ鉢」であり、天明3年(1783)の時点、鎌原村では夜間屋内ではヒデのあかりを灯していた事が判明した。

 群馬県に初めて電灯が灯ったのは明治27年とされるが、嬬恋に電灯が灯ったのは大正14年とされる。それ以前のあかりの主流は石油ランプであったが、石油ランプが一般に普及するのは明治10年頃とされる。石油ランプ以前は、菜種などの油のあかりもあったが、油菜の栽培が少なく、松の多い嬬恋地域では、素朴なそして原始的な、ヒデのあかりが明治になっても灯されていたのではないだろうか。

 ヒデ鉢の中のほのかな炎に、古き時代の庶民のくらしがうかび上がってくる。

※この記事は広報つまごいNo.547〔平成8年(1996年)11月号〕に記載されたものです。

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