松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六)

消えた浅間大明神

▲浅間大明神
(元禄国絵図より)

 県内の著名な山にはたいがい神社が祀られている。例えば、榛名山に榛名神社が、赤城山に赤城神社があるように。ところで、浅間山には、現在神社が祀られていない。それは時に、この地域の精神文化の貧しさとして言及されることがある。

 果たして浅間山にはそれを祀る神社がなかったのだろうか。14世紀の中頃に成立したとみられる『上野国神名帳』の「総社本」の巻頭には、上野国の鎮守10社があり、その中に「従一位浅間大明神」が明記されている。

 ところで、その浅間大明神の所在地は、神社名などから、吾妻町の須賀尾や倉淵村の川浦の地であろうともされている。上野国鎮守10社の中の浅間大明神は、浅間山の本体から遠く離れ、しかも満足にその山容の望見できない地に、所在したとされているのである。

 代わって、江戸時代の中頃元禄の時、幕府は、国(県)毎にその地の村々の所在や道路、神社・仏閣、そして山川などを記入させた絵図を作らせた。いわゆる「元禄国絵図」である。その絵図で嬬恋地域をみると、黒斑山とみられる「みつおねみね」の山腹、標高1,500メートルの鬼押出しの西端辺りに、朱味をおびた色で社殿が描かれ、その脇に「浅間大明神」と墨書されているのである。

 浅間山を神格化した浅間大明神は、浅間山腹の嬬恋地域に存在していたのである。そして、その信仰は本地垂迹の思想によって仏教と結び付いて、浅間山北麓一帯に広まったものと思われる。浅間大明神とその別当(神宮寺)である延命寺の存在は、その事実を雄弁に物語っている。

 浅間山北麓の地は、決して精神文化不毛の地ではなかったのである。しかし、天明3年の噴火に起因する“押出し”は、そうした事実を跡形もなく消し去ってしまったのである。

※この記事は広報つまごいNo.548〔平成8年(1996年)12月号〕に記載されたものです。

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