松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七)

馬鈴薯の栽培

いもの原由記表紙
(田代・松本兼次氏蔵)

 南米アンデス山系を原産地とする馬鈴薯は、熱帯から温帯にわたって広く分布し、特に温帯の冷涼な気候に適する作物とされる。わが国へは、慶長3年(1598)オランダ人により、ジャワのジャカルタからもたらされた。このため、「ジャガイモ」とも言う。同じころ中国にも伝わり、中国では馬鈴薯と名付けられた。

 異国から伝えられたこの作物は、その栽培が冷涼な気候にも適すると言う特性から、不作による飢餓の際の救荒作物として着目され、17世紀後半以降、甲斐の代官中井清太夫・飛騨の代官幸田善太夫、そして、著名な蘭学者高野長英などによって、その栽培が奨励された。しかし、奇異な形とその味が、当時の人々の好みに合わず、農作物として本格的に普及するのは明治に入ってからとされる。

 こうした中での嬬恋村への馬鈴薯の普及については、田代の松本兼次氏の祖先、相秀(今吉)が明治29年に記述した『いもの原由記』に詳しい。同書によれば、天明の頃(1781〜1788)、越後の屋根職人が土産として持ち込んだのが始まりと言う。これが嬬恋の風土に適合していた事と、度重なる凶作の際の救荒作物として普及し、それより50年ほど経過した天保の時、松本家では50俵を生産したとある。ここに嬬恋地域が既に馬鈴薯の産地となっていた事が窺われる。また、その頃、馬鈴薯を原料としたカタクリ粉の生産を開始し、これを売り出すなどして、商品作物として有用である旨を記している。

 冷涼高原の田代をはじめとする嬬恋西部地域は、江戸時代には磽埆下毛の雑穀を主とする貧しい山村地帯とされている。しかし、ここに生活した人々は豊かさを求めて、全国に先駆けて、積極的に馬鈴薯の栽培を開始し、更にそれを原料にしたカタクリ粉の生産に励んだのである。そこには、したたかに生きる嬬恋農民の原点がある。

※この記事は広報つまごいNo.549〔平成9年(1997年)1月号〕に記載されたものです。

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