松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(九)

硫黄の採掘

『砲薬新書』より
(黒岩九蔵氏提供)

 かつて、硫黄は嬬恋村の特産物であった。白根山周辺には、豊かな硫黄鉱床があって、明治以降、需要の増大にともなって工業化した採掘が、小串・吾妻・石津などの鉱山によって行われ、一時は輸出するほどになった。しかし、日華事変後は、物資統制令などにより、その採掘量は減少した。

 第二次大戦後は、硫黄需要工業の復活と、朝鮮戦争に伴う特需景気により、「黄色いダイヤ」としてブームをよび、月産二千余トンを生産し、一時は岩手県の松尾鉱山とならび称されるまでに発展した。ところが、昭和46年以降、重油脱硫装置による硫黄生産が盛んとなり、壊滅的打撃を受けて閉山となり、さしものブームも終息した。

 このように嬬恋村の硫黄採掘は、村の地場産業として、盛んであり、また重要であったが、その採掘の歴史は古く、『続日本記』の和銅6年(713)の記事にそれらしきものがみられる。くだって、戦国時代の天文12年には、岩櫃城代湯本善太夫が、武田信玄へ白根の硫黄五箱を贈ったとある。(『加沢記』)。

 江戸時代の中期になると、これまで“拾い硫黄”とか“隠れ掘り”によって小規模に採掘されていたものが、江戸の小松屋藤吉などよそ者が請負人になって本格的な採掘が開始された。

 ついで後期になると、大笹の黒岩長左衛門、干俣の干川小兵衛、大前の伝左衛門など、名主クラスの者が請負人となって、地元の稼ぎとして引き継がれた。特に、幕末期にあっては、国内外の情勢緊張の中に、火薬や薬種の原料として需要が一層増大し、年産400駄にも達し未曾有のブームを巻き起こした。

 嬬恋村の硫黄の採掘は、日本の歴史に大きく関わりをもちながら推移した。特に幕末から明治にかけては、日本の近代化を背後から支え、第二次大戦後は戦後の日本経済の復興に大きく貢献したのである。

※この記事は広報つまごいNo.551〔平成9年(1997年)3月号〕に記載されたものです。

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