松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(十一)

大笹関所

大笹関所見取図
田村喜七郎氏提供

 上野国から北信濃国を経て越後国へ向かうルートは、古来より幾筋かあったが、その中で、鳥居峠を越えるいわゆる信州街道は、その代表的なものであった。特に戦国時代以降は、真田氏による北毛支配の体制が整うと、その戦略ルートとして、また、経済発展に伴う物資の交流あるいは草津温泉へのルートとして人馬の往来が多かった。

 この道筋にあたる大笹には、以前から沼田藩の私設の番所があったが、今から330余年前の寛文2年(1662)、沼田藩主真田伊賀守は、幕府の許可を得て関所を開設した。その場所は、大笹宿の西端、鹿籠川の断崖に臨んだ場所で、現在「史跡大笹関所跡」とされる所ではない。その対岸の国道南側に隣接する地域であった。

 その広さは、一反五畝八歩(約450坪)とされ、周囲は、南側を土塀とし、東と北側には柵を巡らしている。中に入ると正面に番屋があり、上番所・改所(取調所)・下番所などがある。改所には御道具置場があり、そこには、鉄砲などいわゆる関所の七ツ道具が揃えられている。門は東・北の二門があり、いずれも冠木門であった。関所は堂々とした構えであった。 

 関所番は、当初沼田藩の郷士4人、足軽格2人、下番役の百姓2人がいたが、天和元年(1681)真田氏改易後は、鎌原氏など旧沼田藩士などの4人と下番の大笹村の百姓2人がおり、これが交代で勤務し、明治元年の廃関まで続いた。

 江戸時代には街道の要所に、行政上・軍事上の目的から関所を設け通行人を取り締まった。上野国は全国的にも関所の数が最も多かった所とされる。そうした中にあって、大笹関所は、江戸と信州を結び人馬取締りの目的で設置されたものであるが、『諸国御関所書付』の「上野国所在関所一覧」によると、碓氷関所など六か所の重要な関所の一つとされている。

※この記事は広報つまごいNo.553〔平成9年(1997年)5月号〕に記載されたものです。

(十)黒色磨研の注口土器 へ   (十二)三原出土の経筒 へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る