松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(十二)

三原出土の経筒

享禄3年の銘にある
三原出土の経筒

 明治44年、三原の黒岩順さんの祖父繁太郎氏は、同所上ノ山の畑地で、浅間石で作られた高さ約30センチの筒形の保護容器に収められた経筒を発見した。経筒は、銅板製渡金の円筒形で、底は平底、蓋は無紐の被蓋式盛蓋で、総高は10.5センチ、口径4.5センチである。発見の当初には経巻の残塊があったと伝えている。

 筒身には、

十羅刹女 越前州平泉寺
奉納大乗妙典六十六部聖
三十番神 享禄三天今月日
弘朝之   

 の刻文がある。

 その意味は享禄3年(1530)越前国(福井県)の弘朝とされる遊行的性格をもつ仏教の民間布教者(聖)が、法華経(大乗妙典)六十六部を書写して奉納したとのことである。なお、十羅刹女・三十番神とは、法華経あるいはこれを受持する者の守護神のことである。

 仏教の預言者である末法思想における危機感から、仏教経典を弥勒出世の世まで伝え残すことを目的として、書写した経典を土中に埋納した遺跡を経塚と言う。しかし、この経典の埋納は、鎌倉末期以降、本来の目的からは逸脱し、現世利益などの祈願のための埋納に変容する。

 今を去る460余年前、三原の上ノ山に経塚が造られ、そこに書写された法華経が、経筒に入れられ納められたことは確かである。しかし、奉納を依頼したものが誰であったか、また、その意図が何であったかは必ずしも明らかでない。おそらく、戦国の騒乱の世に、三原の地に勢力を張った武将が現世利益、追善供養のために行なったものであろう。高さ僅か10センチ程の瀟洒な経筒に、戦国時代における嬬恋村の様子を垣間見ることができるのである。

 この経筒は、現在常林寺に大切に保管され、嬬恋村の重要文化財に指定されている。

※この記事は広報つまごいNo.554〔平成9年(1997年)6月号〕に記載されたものです。

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