松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(十五)

石戈の発見

上石津発見の石戈
(写真提供 県立歴史博物館)

 昭和40年代のことである。今井上石津の宮崎長吉さんは、同所中郷の山の中の谷間、標高約1,000メートルの今井川沿いの湧き水の辺りで、蟹取りの際に「穴が二つある黒い磨いた石」を発見した。大変珍しい石なので大事に保管していたという。たまたま、県立博物館の知るところとなり、これが、弥生時代の珍しい遺物である石戈と判明した。

 戈とは、長い柄に対して、ほぼ直角の刃をつけた鉤状の武器で、古代中国では盛んに使用された。我が国では、弥生時代に朝鮮半島を経由して伝わり、北九州を中心に発見されている。その銅戈を模倣した磨製の石製品を石戈と呼んでいる。

 石戈は、弥生時代の前期から中期にかけて、九州北部を中心に、近畿地方にかけて発見されているが、後期になると東日本の地域にも波及した。しかし、その例は少なく、現在のところ長野県北部を中心にわずか10例ほどの発見しかなく、群馬県では、本例をはじめ富岡市と甘楽町の3例に過ぎない。

 嬬恋の石戈は、全長10.1、幅6センチの頁岩で作られたもので、刃の下端関に近い所に、直径1センチ程の穴が2個あけられている。多少、小型ではあるが確かな石戈である。

 群馬県が本格的な弥生時代の段階に入ったのは、今から約2,000年前の中期後半とされる。この新しい時代は、稲作を経済的基盤としていたため、利根川とその支流によって形成された平坦部とその周辺に定着し発展したとされる。このため、山深く、しかも寒冷な嬬恋の地域には、弥生時代の文化の発展はなかったとされてきた。

 石津の中郷で発見された石戈は、嬬恋の地にも弥生時代の人々の生活があったことを示すと共に、多くの謎を秘めながら、県立博物館の常設展示コーナーに群馬の弥生時代の代表的遺物として展示されている。

※この記事は広報つまごいNo.557〔平成9年(1997年)9月号〕に記載されたものです。

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