松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(十六)

嬬恋駅周辺のにぎわい

昭和27年嬬恋駅周辺
安齋洋信氏提供

 小瀬を発った牧水が、嬬恋駅(芦生田)に着いたのは、大正11年の10月17日のことであった。その様子を、牧水は次のように記している。

「この草津鉄道の終点、嬬恋駅に着いたのはもう九時であった。駅前の宿屋に寄って部屋に通ると炉が切ってあり、やがて炬燵をかけてくれた。済まないが、今夜は風呂をたてなかった。向こうの家に貰いに行ってくれという。提灯を下げた少女のあとをついていくと、それは線路を越えた向こう側の家であった。」 『みなかみ紀行』  

 当時の芦生田の様子が彷彿として蘇ってくる。

 草津鉄道は、大正3年に敷設工事が開始され、大正8年軽井沢から芦生田までの約37キロが開通し、終点の芦生田の駅は「嬬恋駅」と名付けられた。

 嬬恋駅の設置された芦生田は、明治28年の資料によれば、戸数34戸、人口156人の比較的小規模の集落であった。しかし、駅が設置されると、草津への湯治客もここで馬などに乗り換えた。また、生活物資の搬出・搬入の基地として活気づき、大正9年には、戸数67戸、人口322人と、戸数・人口ともに倍増した。

 嬬恋駅周辺の賑わいは、これに止まらなかった。大正12年今井発電所、同14年の鹿沢発電所、そして、昭和4年の西窪発電所の建設が始まると、事業所の設置や、工事関係者の居住もあって、一般商店に加えて運送店、カフェー、芸者屋、映画館などが軒を連ねた。この結果、昭和5年には戸数114戸、人口580人、大正9年に比べるとさらに二倍近くに増加し、空前の賑わいをみせた。

 しかし、草軽電鉄の終点が草津に移る一方、昭和10年省営自動車吾妻線が開通され、三原に新駅が設置されると、交通上の拠点がしだいに三原に移り、再び牧水が『みなかみ紀行』に記したような鄙びた集落と化してしまった。

※この記事は広報つまごいNo.558〔平成9年(1997年)10月号〕に記載されたものです。

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