松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(十九)

「大笹の湯」引湯跡

湿地帯に残る
土塁状の引湯跡

 大笹の黒岩悦男さんが所有する古文書の中に、

 「天明三年七月八日、浅間山噴火の際、浅間山麓に温泉が湧き出したので、翌四年の正月御役所にお願いし、大笹宿に湯を引く事とし、黒岩長左衛門は、費用を出して事業に取りかかり、同氏所有の左太夫屋敷へ湯小屋を建て、当五年完成したので七月に開業した」とある。

 また、『浅間山焼荒一件』によれば、「当村の飢え人救済のため引湯した、人足賃として、男には鐚八十文(米に換算して約三号六尺)、女には鐚七十二文を渡した」とある。さらに、天明4年の3月2日までに、「延べ人足四千六十三人に賃金を払った」ともある。この大事業が、浅間山噴火に起因する、冷害による作物の不作(天明の大飢饉)で発生した多くの飢えた人々の救済にあったことは明らかである。

 ところで、この引湯道の計画は、“鬼押出し”末端の標高1,200メートル前後の湧出地点から大笹までの三千二百五十間(約6キロ)を引湯することであった。この間は、火山山麓特有の複雑な地形であり、そのため引湯するには、尾根には堀割りを、沢には脚立状に木を組み樋を渡し、窪地には両側面に石を積んで土塁を築き水路を確保するなど、工事は決して容易なことではなかった。

 過日、大笹の文化調査委員田村喜七郎さんの案内で、鎌原地内の「浅間ハイランド」内に引湯跡を見学する機会を得た。湿地帯の中に三百数十メートルにわたって、横切断面台形の、高さ1.2、底辺2.5、上辺1.8メートル程の、両側面に石を積み、上面中央部分を窪めた土塁状の引湯跡が、比較的原形を保って遺存していた。

 開業された大笹の湯は、その後、湯の温度が次第に低下し、文化3年(1806)頃廃止されたとされるが、引湯跡は、歴史的な大飢饉に遭遇した人々の様々な思いを秘めて、高原の雑木林の中、訪れる人もなく静まりかえっていた。

※この記事は広報つまごいNo.561〔平成10年(1998年)1月号〕に記載されたものです。

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