松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十一)

鎌原の郷倉

鎌原神社の境内に建つ
「鎌原の郷倉」

 江戸時代の領主にとって、農民はその体制と権力を維持する土台であった。そこで領主側は農民を保護するための種々の政策をとった。ことに、その中期以降になると、飢饉や災害に備えて、穀物を普段から貯えておく、「備荒貯穀」の制度を施行した。その具体的な施策の一つに郷倉の制度があった。

 郷倉は、原則的に村(郷)ごとに設置され、収穫期になると前年までの分を詰め替え、その年の貯穀分を加えた。その年の貯穀分は、普通一戸に付き、稗三升程とされた。これを、飢饉・災害の際に放出し、困窮した農民を救済することにした。

 鎌原神社の境内に遺る郷倉は、村内唯一のものであり、郡内にも他に例がない。また、県内に現存するものは僅かに数例に過ぎない。

 その鎌原の郷倉は、間口二間余(395センチ)、奥行き一間半程(308センチ)、壁の厚さ八寸(24センチ)の芽葺き荒壁の土蔵造りである。一般の土蔵に比べると、小型で屋根の傾斜がきついのが目立つ。創建されたのは、他の地の文献史料などからして、天明8年(1788)頃と思考される。

 江戸時代後期の、打ち続く飢饉や災害の中、この鎌原村の郷倉がどのように役立ったかについては明らかでない。ところで、前橋にある県指定史跡、「上泉の郷倉」の古文書には、「此の籾、〆八二石、天保七年の困窮之節、右籾不残、困窮人貸付」とあることにより、この鎌原村の郷倉も、それなりの役割を果たしたものと思われる。

 しかし、その反面、村内の干俣村では、郷倉を設置していながら、天保7年の飢饉の際、困窮した農民が、夜逃げ同様に離村し、天保6年の家数100軒余り、人数580余人が、天保9年には家数61軒、人数346人と激減したとする事実がある。

 封建社会の基本的構造に根ざす、農民の荒廃と恐慌は、このような郷倉をもってしても、殆ど解決されなかったことを示している。

※この記事は広報つまごいNo.563〔平成10年(1998年)3月号〕に記載されたものです。

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