松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十二)

炭を焼く

窯出しの風景

 この時期、遠くの山間のあちこちから、一筋の白い煙の立ち昇るのをよく見た。炭を焼く煙である。幼い頃の心に残る風景でもある。

 先日、鎌原の土屋博義さんにお願いし、炭の窯出しの様子をみせて頂いた。小雪の舞う寒い日であった。訪れた際、窯口はすでに開けられていた。中を覗くと薄く灰に覆われた炭が、所狭しと並び、酸味の利いたキナ臭い匂いと、顔面に当たるナマ暖かい空気が、昔日の思いを彷彿として蘇らせてくれた。

 わが国で本格的な炭が焼かれ使われるようになったのは、古墳時代のことと推定される。当初は製鉄の際の原料の一つとして利用されたが、時代が進むにしたがって、料理や暖房の燃料に使われるようになった。

 特に、近世になって江戸をはじめ各地に都市が発生し発展すると炭の需要は高まった。他方、商品経済の発展は、日常生活の中で貨幣を必要としたが、農業生産の低い山間部の住民にとっては、炭焼きなどの山稼ぎは、現金収入源として重要であった。

 嬬恋村で、本格的に炭を焼き始めたのは明らかでない。しかし、江戸時代の村々の様子を記した『書上明細書』によれば、現在の大学にあたる各村の殆どが「薪炭乏シカラズ」とか、男の稼ぎの一つに炭焼きをあげている。そして明治初年の『物産取調書上帳』によれば、

門貝村 = 炭250駄
干俣村 = 炭200駄
大笹村 = 炭113駄

などの記事が散見される。

 これをうけて、大正三年には、村の勧業指導の一環として、「木炭同業組合」が結成され、以来、その生産に弾みがつき、昭和初期の年産約1,800トンをピークに40年代にかけて盛んに生産が続けられた。その結果、嬬恋村は木炭の主要産地として、不動の地位を築いた。

 かつて、村の経済と村民の生活を支えた製炭業は、液体・気体燃料の流行によって、すっかり衰退してしまった。しかし、歴史的遺産として、その技術はなんとか後世に伝えたいものである。まさかの有事に備えても。

※この記事は広報つまごいNo.564〔平成10年(1998年)4月号〕に記載されたものです。

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