松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十五)

門貝の熊野神社

熊野神社裏の岩窟

 門貝の地名は、“カドのカイ”で、ガドは出入口、カイはカイトのカイで小集落を意味する。従って、カドカイは、他地域との出入口にある小集落ということであろう。

 事実、14世紀に書かれた『神道集』には、「昔、毛無道は、奥の大道」とか、「碓井・毛無の二峰に関を構え」などの記事がみられる。万座川を逆上がり、門貝を経由する“毛無道”は、上州と信州方面を繋ぐ道として、重要であった。門貝はその上州側の拠点的集落としての機能を果たしていたものとみられる。

 この道筋に沿った門貝の鳴尾に、熊野神社が祀られるようになったのは、鎌倉時代の文保3年(1319)の頃で、今から680年も前のことであったらしい。

 熊野神社の背後の急峻な斜面に岩窟がある。この岩窟の壁面には、諸仏の尊像を表すとされる“種子”が、梵字(古代インド文字)で刻まれている。正面にあたる壁面には大日如来を示す種子が、左壁には仏種子の下に「□保三年大才己未□月上旬」、右壁の仏種子の下には「太郎」と達筆に記している。

 また、神社の境内入口にある高さ3メートルもの巨石の上面には雄勁な筆法で、弥陀三尊と他に二仏の種子が刻まれている。巨大な板碑に見合うもので岩窟遺構と何らか関係を有するものであろう。

 大和国(奈良県)の大峰山の熊野神社を本社とする信仰は、平安時代の末から盛んとなった。その頃、熊野は山岳に籠って修業することを目的とする修験道の霊場としても知られ、その信仰は、熊野御師(山伏)とされる人たちによって、各地へと広められた。

 毛無道の道筋にあたる門貝の地は、通行上の要所でもあり、加えて、吾妻山(四阿山)や白根山など深山幽谷の霊地を控えていた。そこに、山伏の修業の拠点が設置され、やがて、熊野神社が分社されたのであろう。神社の背後の岩窟遺構や入口の巨石に刻まれた仏種子は、その隆盛を物語っている。

※この記事は広報つまごいNo.567〔平成10年(1998年)7月号〕に記載されたものです。

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