松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十七)

浅間嶽下奇談

発掘された「十日窪」
の住居(昭46年8月)

 文化13年(1816)狂歌の作者として著名な大田蜀山人は、大笹村の問屋兼名主であった黒岩長左衛門の招きを受けて、浅間北麓の地を訪れたものと思われる。その際、蜀山人は里人から奇妙な話を聞くのであるが、それを『半日閑話』の中で「信州浅間嶽下奇談」として記している。要約するとほぼ次の通りである。

 「9月(文化12年)頃聞いた話だが、夏の頃信州浅間ヶ嶽辺りの農家で井戸を掘った。2丈余(約6.5メートル)も掘ったけれど、水は出ず瓦が2、3枚出てきた。こんな深い所から瓦が出る筈はないと思いながら、なお掘ると屋根が出てきた。その屋根を崩してみると、奥の居間は暗くて何も見えない。

 しかし洞穴のような中に、人がいる様子なので、松明をもってきてよく見ると、年の頃5、60才の二人の人がいた。このため、二人に問いかけると彼らが言うには、

 “幾年前だったか分からないが、浅間焼けの時、土蔵の中へ移ったが、6人一緒に山崩れに遭い埋もれてしまった。4人の者はそれぞれの方向へ横穴を掘ったが、ついに出られず死んでしまった。私共二人は、蔵にあった米三千俵、酒三千樽を飲み食いし、天命を全うしようと考えていたが、今日、こうして再会できたのは生涯の大きな慶びです”と。

 農夫は、噴火の年から数えてみると、33年を経由していた。そこで、その頃の人を呼んで、逢わせてやると、久しぶりに、何屋の誰が蘇生したと言うことになった。

 早速、代官所に連絡し、二人を引き上げようとしたが、長年地下で暮らしていたため、急に地上へ上げると、風に当たり死んでしまうかも知れないといい、だんだんに天を見せ、そろそろと引き上げるため、穴を大きくし、食物を与えたという。」

 この奇談が何処であった事か著者は明示していない。しかし真偽はともかく、その内容から鎌原村に係わる奇談として、ほぼ間違いないことであろう。

※この記事は広報つまごいNo.569〔平成10年(1998年)9月号〕に記載されたものです。

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