松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十八)

産馬の業

鎌原区に残るオヤ

 鎌原区には素朴ではあるが珍しい建物がある。屋根は奇棟造り風に萱で葺き、周囲は壁はなく、荒削りの柱などが露出したもので地元では“オヤ”と呼んでいる。冬から春にかけての馬の飼料(秣)を貯蔵する施設であったという。かつてはどこの家にもあったと言うが、現存するものは三棟に過ぎない。

 江戸時代以降の庶民の生活の中にあって、馬の果たす役割は大きかった。肥料や収穫物の運搬などの農作業。薪や炭など生活物資の運搬、また近在の市場への商品輸送。そして駄賃稼ぎなど多様な役割を果たした。このため馬は同じ屋根の下で人と一緒に暮らしていた。

 江戸時代にこうした馬が、どのくらい飼われていたかについては明らかでない。明治十年の頃書かれた『上野国郡村誌』によると、邑楽郡を除く上野国には、35,518頭の馬数が記されている。この内訳は、群馬郡の6,072頭が最も多く、それに次いで勢多・吾妻郡と続いている。

 ところで、この馬について、興味のひかれるのは、雄馬と雌馬との割合である。すなわち、群馬郡では雄馬の占める割合は84.4%と比率が高い。これに対して、吾妻郡では雌馬が、96.1%で圧倒的に多い。勢多郡では、その中間で雄馬と雌馬の割合は、ほぼ同数である。

 こうした中で、記載漏れの門貝村を除く、嬬恋村の馬の総数は567頭で、その全てが雌馬とされているのが印象的である。

 嬬恋村で、このように雌馬のみ飼育される理由について、物質輸送の際、雌馬は性質がおとなしいため、一人で3・4頭引き連れることができるとか、飼料が少なくて住むことなどが上げられている。

 しかし、それにも増して大きな理由は、仔取りをすることにあったのではないか。現金収入の少ない山村においては、「吉田芝渓」の言う“産馬の業”が成立したのではないか。鎌原区が僅かにのこるオヤは、そうした産馬の歴史の一端を、今日に伝えるものであろう。

※この記事は広報つまごいNo.570〔平成10年(1998年)10月号〕に記載されたものです。

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