松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十)

大笹駅浅間碑

大笹駅浅間碑の図

 この碑の名称について、『嬬恋村誌』では、“蜀山人浅間噴火記念碑”とし、一般では“蜀山人の碑”と呼んでいる。間違いではないが建碑の事情や、その後の扱いからして、「大笹駅浅間碑」とすべきであろう。

 天明3年の浅間山浅間焼け災害の際、その救助に奔走し、物心両面にわたって、大きな貢献をした大笹宿の問屋の主人黒岩長左衛門(大栄)は、災害の碑の建立を志した。そこで、長左衛門は、狂歌を嗜んだ関係などからして、当世、狂歌の第一人者であった大田蜀山人(四方赤良)に、碑の撰文と染筆を依頼し、その原稿を得たのである。

 ところで、長左衛門は程なくして亡くなり、その実現は中断してしまった。しかし、その子侘澄は、大栄の志を継いで、亡父13回忌の手向けとして大笹宿の中程、長左衛門宅の向かい側、山裾の急斜面の一部を削平し、碑を建て「大笹駅浅間碑」としたのである。

 碑は、2メートルに達する大きな安山岩の自然石で、その表面には和歌を交えた12行にわたる本文と、記念銘、そして蜀山人、大栄の名を記し、さらに、侘澄の一文を添えている。

 碑文は、人心を不安と動揺に陥れた噴火の様子を後世に伝えると共に、噴火災害に対する心構えを記したものである。慰霊と供養のための県下18基にものぼる浅間焼けに関する碑の中にあって異色のものであった。

 このため、世人の多くはこの碑に注目した。特に、かの有名な『東海道中膝栗毛』の著者十辺舎一九は、『善光寺草津道中金草鞋』中で、侘澄の作成した木版刷りを利用して、「大笹駅浅間碑」として、全国的にも紹介しているのである。

 天明3年浅間押しの災害の中にあって、長左衛門の意図と活動は看過できないものがある。現在、碑は故あって他人の手に渡り、「鬼押出し園」に移され、野ざらしの状態になっている。村はこれを「蜀山人の浅間焼け碑」として、村の史跡?として指定している。しかし、その風化と減失は免れない。

※この記事は広報つまごいNo.572〔平成10年(1998年)12月号〕に記載されたものです。

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