松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十一)

万座温泉事始め

上州万座温泉の図

 古く、吾妻山から白根山に至る連峰の上州側を、総称して万座山と言っていた。この地は、仏教と神道の結合によって成立した修験道の霊地とされ、山伏たちの跋渉する地であった。また、硫黄や明礬の産地としても有名であった。この為、人々の入山は多かった。これらの人々が湯の存在を見落とす筈がない。温泉認知の始まりである。

 記録の上では『加沢記』に、永禄5年(1562)羽根尾入道が「万座山へ浴場」とある。これが事実であるかどうかは分からないが、ほぼその頃から温泉として利用されていたのは確かであろう。

 江戸時代の始め頃は、地侍西窪治部左衛門の建てた湯小屋が一軒あって、「御助け小屋」としても利用されていたらしい。その後、宝永年間には、西窪の人2名が8間と2間半の湯小屋を建てて、湯銭をとり密かに営業していたらしい。

 万座の湯が、本格的な温泉として開発されるのは江戸時代も中頃のことであった。明和3年(1766)門貝・西窪・中居の三か村が、温泉開発の願書を役所に提出し、これが認められた。しかし、経営不振で、僅か2年で権利放棄を願い出た。

 これを受けて、明和8年江戸の長峰藤吉が、温泉開発を願い出許可された。ところで藤吉による温泉経営は、順調なものではなく、寛政9年(1797)には、大笹村の問屋黒岩長左衛門に、温泉株や屋敷などが金50両で譲渡されている。

 長左衛門がどのように温泉経営を行なったか明らかでないが、天保の頃には、門貝村の滝沢伊右衛門が温泉稼ぎに当たったが、不振の為、湯宿の年貢納入にも事欠くあり様であったと言う。

 江戸末期までの万座温泉の権利・経営者・規模などは目まぐるしく変わったが、その特色は、常に硫黄や明礬の稼ぎと関わり、その消長と共にあったことである。加えて、通行もままにならず、ついに本格的な温泉場にはならなかった。万座温泉が活況を呈するようになったのは、戦後になってからの事である。

※この記事は広報つまごいNo.573〔平成11年(1999年)1月号〕に記載されたものです。

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