松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十三)
小串鉱山跡探訪の記
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▲毛無峠から見る鉱山跡
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昨年11月12日、前教育長豊田博先生の案内で、村文化財調査委員有志、社会教育課職員で現地を探訪した。
氷雪の吹きすさぶ毛無峠から見下ろす小串鉱山の跡地は、その最盛期2,100人を擁したとされるかつての鉱山町の片鱗はなく、崩壊しかかった変電所と索道の柱だけを、ただ残すだけの荒涼たるものであった。
毛無峠付近で硫黄の採取を行なったのは、おそらく江戸時代にまで逆上ることは確実だろう。「大日本硫黄」が、鉱区を嬬恋側に設定したのは、大正12年とされる。しかし、その事業も昭和2年には廃止している。嬬恋側の鉱区を、小串鉱山として「北海道硫黄」が本格的な採掘を開始したのは昭和4年のことであった。
高品位と恵まれた鉱床によって、その生産は飛躍的に伸び、標準年間採掘量は15万トンをみるにいたり、岩手県の松尾鉱山に並び称されるようになった。こうして、標高1,630メートルの長野との県境に近い、寒く雪深い高山に、空前絶後の鉱山町が形成されたのであった。
この高山町に災害が発生したのは、今から60年前の昭和12年11月11日の午前3時半頃のことであった。突如鉱山背後の斜面が、幅約500メートル、長さ1キロメートルにわたって一気に崩落し、建物35棟が埋没し15棟が焼失した。これによって、245名の尊い生命が一瞬にして奪われた。その惨状は、到底筆舌に尽くせないものであったと伝えている。
再起不可能とされた小串鉱山は、その後見事に復興され、昭和25年以降“黄色いダイヤ”の名でブームを巻き起こした。しかし、昭和30年代の半ば以降に始まる、石油精製過程から生産される“回収硫黄”によって圧迫され、昭和46年閉山を余儀なくされた。
豊田先生の説明で荒涼たる風景の中に、一事業に結集した人々の、底力とエネルギーを感じた。また、記念碑の“心のふる里 永遠なる小串”の文字に関係者の熱い思いを見た。
※この記事は広報つまごいNo.576〔平成11年(1999年)3月号〕に記載されたものです。