松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十四)

中居屋重兵衛

▲中居屋中兵衛の墓
(群馬県指定史跡)

 中居屋重兵衛は、文政3年(1820)、中居村(現三原)に生まれ、幼名を武之助、成人して、撰之助と改名した。横浜に出てからは、出身地に因んで屋号を中居屋とし、さらにその名も重兵衛と改めた。

 彼は20才の頃、江戸に出て、泉和屋とされる書店に住み込み、その仕事に励むほか、学問を志し儒学を学んだほか、特に、火薬の研究に従事し、その製造を試みた。また、その必要もあって蘭学を学ぶなどして、幕府の要人や学者・文化人との交流もあった。また、安政元年(1854)には、江戸の日本橋に店を構えて開業独立し、白根山の硫黄を原料とする優良な火薬を製造販売すると共に、薬、絹、木綿なども販売し、大いに産をなした。

 重兵衛は商売に専念するほか著述にもたずさわり、嘉永7年には『子供教草』を、安政2年(1855)には『修要砲薬新書』を刊行した。『子供教草』は、“道徳”の大切さを幾多の例をあげて説いたものであり、『集要砲薬新書』は、硫黄の採取や火薬の製法・貯蔵法、そして、落雷を避けるための方法など、37項目にわたり、数多くの図を入れて書いている。

 安政6年(1859)横浜が開港されると、重兵衛は早速外国商館に対する生糸の売り込みを開始した。横浜に設けられた重兵衛の店は、間口・奥行ともに30間(54.6メートル)とされ、60余人もの店員を擁したという。また銅葺の屋根をいただく豪壮な店は“銅御殿”と呼ばれ、重兵衛は“浜の門跡様”と言われる程の豪商となった。

 しかし、これほどまでに全盛を極めた重兵衛は、開店2年余り経ったある日、こつ然と横浜から姿を消し、店も幕府に没収されてしまった。彼は、文久元年(1861)42才で死去したとも伝えられている。

 昭和31年群馬県は、中居屋重兵衛を、歴史的人物として評価し、その墓を県指定史跡とし、『集要砲薬新書』など6点を重要文化財に認定した。
(本稿は、安斎洋信さんに校閲していただきました。)

※この記事は広報つまごいNo.577〔平成11年(1999年)4月号〕に記載されたものです。

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