松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十五)

鹿沢温泉繁盛記

▲大正二年の鹿沢温泉
(小林康章氏提供)

 鹿沢温泉は、古くは“山の湯”とも呼ばれ、西吾妻や上田市周辺の人達によって親しまれ、特に信州からの客が多かった。その発見は「信州加沢郷薬湯縁起」によれば、孝徳天皇の百雉元年(650)とされるが、これは伝承であって確かなことは分からない。

 その所在地が、上州と信州との国境にあって、古くは、地権者は大笹・田代の両村に、温泉権は長野県小県郡の新張・禰津の両村(現東部町)に属していた。そのため、新張・禰津の人達によって、温泉小屋など建設の場合は、大笹・田代の村々に、借地証文や地代などを納めなければならなかった。

 それにしても、温泉郷が豊富であり、しかも良質であったため、延享元年(1744)には湯小屋が15軒もあって繁盛した。その後、洪水の被害もあって一時、地頭茶屋1軒と湯小屋4軒となってしまった。しかし、その後も湯客の増加につれて、湯小屋の建設が進み、宝暦10年(1760)には12軒となり、ほぼ旧態に復興した。

 その経営は、新張・禰津の両村から三里余り(約12キロ)、田代からは一里半(6キロ)、という山中にあり、しかも寒さは厳しいため、冬季の温泉稼業はままならず、4月初めに湯小屋を開いて客を受け入れ、10月8日に閉鎖するのが一般的な習わしであった。

 鹿沢温泉の利用の歴史は、信州側を軸として展開された。そのため、湯客の多くは、東部町の新張から山道を約12キロを辿ることとなるが、その道程は厳しかった。そこで彼らは、旅の安全と利益のために、一町(108メートル)毎に観音像を建て、併せて百体を設置した。(東部町指定文化財)。その最も古いのものは天保8年(1837)、新しいものは明治2年(1869)である。江戸時代後期における繁栄の様が偲ばれる。

 こうした鹿沢温泉は、大正7年(1918)の大火によって全焼し、翌8年「雲井乃湯」のみが旧地に再建され、他の旅館は新鹿沢に移り新発足した。

※この記事は広報つまごいNo.578〔平成11年(1999年)5月号〕に記載されたものです。

(三十四)中居屋重兵衛 へ   (三十六)鬼押出しの溶岩流 へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る