松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十八)

盛んだった村芝居

▲延命寺本堂跡発見の
カツラの一部

 江戸時代から明治にかけて、都市の劇場芸能であった歌舞伎や人形浄瑠璃は、娯楽の乏しかった山村に“村芝居”としてひろまった。その内容は、もののあわれや勧善懲悪など、庶民の心情にもあっていた。そのため、愛好され隆盛を極めた。ところで、当時行なわれていた村芝居には“買い芝居”と“地芝居”とがあった。

 買い芝居とは、村の有志が金銭を用意して、江戸や上方などの役者を招いて興行するものであって、木戸銭を徴収してもその経済的負担は大きかった。嬬恋村では、田代の吾妻山神社の南に、干俣には諏訪神社の裏に舞台があった。また、大前では字神前の吾妻川寄りに舞台屋敷の名称が残るなど、これらの地では買い芝居が盛んに行われていたことを物語っている。

 こうした西部の買い芝居に対して、東部では、住民による真似ごと自演の地芝居が盛んで、特に鎌原はその中心であった。その状況は、明治の末年までも続いた。『嬬恋村誌』によれば、明治頃の鎌原には浄瑠璃語りに佐藤房市、金太夫と愛称された大塚金市、所作の振付には山崎伝蔵、化粧師の山崎嘉遊などのスタッフが揃っていたと言う。出演者は自薦他薦さまざまであったが、女形(おやま)はほぼ固定していたとも言う。また、舞台は常設的なものではなく、小屋掛け組み立て式のものもあったとされる。

 平成元年度、延命寺の本堂跡の発掘の際、木箱に入れられた状態でカツラが発見された。カツラは、長さ38センチの銅製の薄板に、人の頭髪を約7ミリの間隔に差し込んだもので、芝居用のカツラであることは確かである。鎌原では天明の災害前にも芝居が盛んであったことを示している。

 村芝居の興行は、決して安易なことではなかった。幕府の風紀上などに問題があるとの認識は、承応4年(1655)以来の規則となった。しかし、さまざまの制約の中、村人たちは庶民の数少ない娯楽・芸能として、したたかにそれを維持し発展させたのであった。

※この記事は広報つまごいNo.561〔平成11年(1999年)8月号〕に記載されたものです。

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