松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(三十九)
無量院の五輪塔
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▲約400年の歴史を示す
無量院の五輪塔 |
大笹集落の中程、県道大笹−北軽井沢線の起点を僅かに進んだ、無量院境内に対峙する老木の元に、形の整った五輪塔が存在する。地元の伝承では、「一乗院亜閻梨の墓」とされ、大正の初め塔婆を建てて600回忌の供養を行なったと聞く。
“亜閻梨”とは、天台・真言宗の僧位で高僧を意味する。一乗院とはここでは人名を指すのであろう。無量院の古位牌によれば、この地には弘治年間(1555〜1558)大法上人(一乗院)によって草庵が建てられ、天正18年(1590)真田伊豆守の祈願所となったとある。また、岩上家文書によれば、慶長15年(1610)尊応がここに真言宗一乗院(長盛寺)を開山したとある。
ところで、大法上人は慶長2年には亡くなったとされる。すると一乗院を名乗る可能性のある高僧は少なくとも二人いることとなる。五輪塔に直接係わる一乗院とは、大法上人かあるいは尊応かどちらかであろう。
別にこの地には、三岳で修行を積み重ねて身につけた超人的な験力で、加持祈祷などを行なって民衆などを救済しようとする修験道とされる信仰があった。修験道に励む行者を修験者とか行人とも言った。行人の中には村人を災害や疫病などから救うために生きたまま土中に入り“入定”する者もあった。
事実、一乗院亜閻梨については、「悪い病気の流行った際に生きながら土中に入り、経を唱え鈴を七日七夜振り続け、遂に息絶えて仏となった。この間、村人は葦の管で水を注いでいた」。との言い伝えもある。
五輪塔とは、空・風・火・水・地の五大を宇宙の生成要素と説く、仏教思想に基づいて作られたものである。元来は堂の落成や、仏像の開眼供養のために造立されたが、中世以降は先亡者の供養や墓石として立てられるようにもなったとも言う。
無量院の五輪塔は、誰によってどのような目的で造立されたものであろうか。多くの謎を秘めながら、「十二の森」とされる旧跡の一隅に立っている。
※この記事は広報つまごいNo.562〔平成11年(1999年)9月号〕に記載されたものです。