松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四十一)

華童子の宮跡

▲華童子の宮跡と建築用材

 古くから吾妻山(四阿山)は、我が国固有の宗教である神道と仏教(密教)との融合によって成立した“修験道”の霊山であった。その参道は、鳥居峠から上信国境を尾根伝いに辿る道が本道であった。その険しい参道を、峠から4キロ程登った標高約1,800メートル地点に、朽ち果てた宮跡がある。“華童子”の宮跡である。

 華童子について、文禄5年(1596)の『吾妻山宮修理』の屏書には「蓮華童子院別当良叶」の墨書があると言う。従って、詳しくは、蓮華童子の事であろう。そして、童子とは、如来(釈迦)の王子または一番弟子に当たる菩薩の別名であり、また、菩薩や明王の一族とされるものでもある。したがって、童子こと蓮華童子とは、菩薩又は明王級の仏(仏像)ということになる。

 ところで、密教では、金剛童子を本尊として祀り、疾病・除災・安産などのために祈祷する修法があった。このようなことからすると、多分、吾妻山の華童子の宮には、蓮華童子を本尊として祭り、御師とされる神職又は社僧や行者がおり、加持祈祷などの宗教活動が行なわれていたものと思われる。

 霊山吾妻山山頂に“白山権現”が勧請されたのは『吾妻山縁起』によれば「養老2年(718)」とされる。しかし、それは確かなことではない。おそらく、修験道が宗教として確立した中世以降のことであろう。

 山頂に白山権現が勧請され霊山としての信仰が高まると、山頂の奥宮に対して、山麓には里宮が設けられるようになるが、その奥宮と里宮の間には“中宮”が必要となる。華童子の宮は、おそらくその中社的な存在であったであろう。

 過日、資料館横沢貴博主査とその華童子の宮を訪ねた。そこには、幅1.2メートル、高さ90センチ程の石塁に囲まれた宮跡や、灯籠・石柱などがその残骸を曝していた。厳しい自然環境の中にかつてこの施設が、霊山吾妻山信仰の本拠地であったことを物語っている。

※この記事は広報つまごいNo.564〔平成11年(1999年)11月号〕に記載されたものです。

(四十)抜け道の碑 へ   (四十二)歴史の道「毛無道」 へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る