松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四十二)

歴史の道「毛無道」

▲干俣牧場より毛無峠を望む

 「ヶ」とされる古語は樹木を表していた。吾妻山と万座山の鞍部を嬬恋から望見すると、寒風が吹き抜けるためか笹原の青さのみ目立ち樹木の繁茂している様子は見られない。いわゆる“毛無し”なのである。古くそこを「毛無峠」と呼び、それを通過する道を「毛無道」と言った。

 毛無峠は、門貝を起点とし仁田沢を経由し、万座川から不動沢に沿って進み、毛無峠を越えて長野県の高井郡地方に通ずる古道であった。その史料としての初出は、14世紀(南北朝時代)にまで遡る。「神道集」によれば「昔ハ毛無通(道)ハ、奥ノ大道」とか、「碓井ノ手向、(毛)無ノニ峯ニ関ヲ居ヘテ」などとあり、毛無峠が関東地方と信越地方を結び道として古くから重要であったことが分かる。

 江戸時代に入っても、毛無峠は上州と信州を結び道の一つとして重要な役割を果たしていた。ところが、寛文2年(1662)大笹に関所が設けられると、幕府は交通政策上、毛無道を通行禁止とした。しかし、この道は時間と経費の節減を図って半ば公然と利用されていたようである。

 このため、幕府は天和2年(1682)堅くこの道の通過を禁止し、その監視を干俣村に命じ違反者には厳罰に望むこととした。しかし、このような厳重な監視下においてもこの道の利便性は捨てきれず、あえてこの道の利用を試みる者もあった。そこで、大笹関所では路上に堀割りや矢切を設置して通行禁止の態度を益々固めた。

 他方、幕府のこうした交通政策も、18世紀以降の商品経済の発展など時代の成り行きには抗しきれず、次第にその通行禁止策も形骸化し、明治元年大笹関所は廃止されるとその利用も自由となった。

 しかし、その後の交通機関の発達と道路網の整備はこの道を次第に衰退させ、昭和期に入ってからは、僅かに小串鉱山への道としてその片鱗を残すのみとなった。

※この記事は広報つまごいNo.565〔平成11年(1999年)12月号〕に記載されたものです。

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