松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四十四)
今宮白山権現のこと
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石川、岐阜、福井県境に位置する白山は711年、越前の僧によって開かれたとされる。以来、立山と共に山岳信仰の対象として、あるいは修験道の聖地として著名となり、各地にその拠点が設けられるなど、その信仰は高まった。
群馬・長野の県境に位置する吾妻山(四阿山)は、早くから白山権現を祀るなどして、山岳仏教や修験道の聖地であった。
『加沢記』によれば「……本朝の元祖にて井莊諾尊を白山権現と敬いたてまつる。信州浅間、吾妻両山の御権現御一体なり、……」とあり、吾妻山に白山権現を祀っていたことを記している。さらに「上州の里宮は吾妻郡三原の郷にぞ建てまう」とも記している。
上州の里宮とされ三原郷の今宮権現について、今井在住西窪淳氏所蔵の石造塔の台石には
寄進社領之事、右所滋野瀧下□ |
□、今宮白山権現に永代寄進申 |
所也、子々孫々に於、不可有以 |
疑、若いぎ申物ハ、権現之御ふ |
けうた畄可也、仍為後日状如件、 |
慶仁三年巳丑十一月吉日 |
大旦那滋野朝臣景幸 |
願主 別当法師心秀 |
□郷二郎やしききえ申所也 |
とあり、1469年にあたる応仁3年、吾妻郡の在地領主である羽尾景幸が、今宮白山権現に社領を寄進する。と記したものである。
また、三原出土の経筒の銘文には越前州平泉寺とある。平泉寺は、白山ひめ神社の別当寺であり、とされる梵字は、白山の本地仏である十一面観音を表している。これらのことから、享禄3年(1530年)の頃、すでにこの地に白山の信仰が浸透していたことを物語っている。その後、天正8年(1590年)ときの沼田藩主真田信幸も、武運長久のため社領として五貫文を寄進したとの史料もある。
西吾妻の滋野姓海野氏を名乗る武士や真田氏は、武運長久と領内繁栄のため、今井の地に白山権現を祀るなど、吾妻山の神を篤く崇拝していたのである。
※この記事は広報つまごいNo.567〔平成12年(2000年)2月号〕に記載されたものです。