松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四十五)

芭蕉の句碑

▲大笹神社境内に建つ
“芭蕉の句碑”

 芭蕉は正保元年(1644年)伊賀国(現在の三重県)上野藩の士族の家に生まれ、はじめ貞門俳諧、のちに談林風にも親しんだ。延宝8年(1680年)江戸深川の芭蕉庵に移り、俳諧師としての生活をたてる一方「野ざらし紀行」によって、正風俳諧を確立した。以後芭蕉は、全国各地を行脚遍歴し「奥の細道」など不朽の名作を残したが、残念なことに群馬県内には来遊したことはなかった。しかし、その句碑は210基にも達している。

 大笹神社の境内に、芭蕉の句碑が建ったのは、芭蕉没後より159年を経た嘉永6年(1853年)のことであった。碑面には元禄4年(1691年)に編まれた『猿蓑』の中から

 「雲雀啼く なかの拍子や、きじの声」

が採られている。

 碑の右側面には、建碑の記年銘と「一夏庵竹烟敬書」とある。背面には、世話人として、「欄陵館卓夫」など、地元の俳人8名の名を連ねている。

 上州においても、俳諧の先駆をなしたものは、貞門と呼ばれる派であったが、その後、談林派がおこり、やがて、正風とされる芭蕉派が台頭し、芭蕉の作風を慕う人達によって、ひときわ盛んとなった。

 とくに近世中期には、上毛俳人の代表とされる黒岩鷺白がいる。鷺白は草津温泉宿亭の主人で、正風俳諧の正統派を継承した。後期になると、天下の名流しといわれる田川鳳朗門下で、名の聞こえた二人の上毛俳人がいた。その一人が草津の坂上竹烟である。竹烟は、諸国を遊歴した後、天保十一年(1840年)草津に定住し、一夏庵を開き、後進の指導にあたった。この句碑の碑文の書者でもある。

 文人の嗜みとされた俳諧は、近世後期になると、広く一般化し、庶民の間に大きな広がりをみた。こうした中にあって、一夏庵竹烟は、嬬恋地域の多くの人達に、正風の俳諧を伝えたのである。大笹神社境内の芭蕉の句碑は、その記念碑であると同時にその頃の嬬恋地域の、庶民文芸隆盛の一端を、具体的に示すものである。

※この記事は広報つまごいNo.568〔平成12年(2000年)3月号〕に記載されたものです。

(四十四)今宮白山権現のこと へ   (四十六)今井東平遺跡出土の土偶 へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る