松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四十七)

延命寺の碑

▲観音堂入口に建つ延命寺の碑

 明治43年、吾妻川洪水の際、吾妻町矢倉の河原で一基の碑が発見された。その碑は、その後、地元の人達の配慮で鳥頭神社の境内に保存されていたが、銘文に「延命寺」と記されていたことや、右下の欠損部分が鎌原区の安済徳太さんの敷地内に“道しるべ”となって残っていたことから、天明3年の浅間山噴火の折りに埋没した「鎌原村」の延命寺の碑と判明し、昭和18年鎌原区に戻され、現在、鎌原観音堂参道の入口に設置されている。

 碑は、現存する部分で高さ99cm、幅2cm、厚さ34cmの安山岩に銘文を刻んだもので、平らに加工された碑面には、豪快な筆法で、中央に一際大きく「浅間山」左下に「延命寺」そして右下に、欠損部分があるものの「別当」と読みとれる文字が刻まれている。

 ところで、この碑は一体何を表し、何のために建てられたものだろうか。碑に刻まれた銘文から検討してみよう。

 中央に刻まれた浅間山は、単なる浅間山の名称ではなく、おそらく「浅間大明神」を指すものであろう。また、別当とは「別当寺」すなわち、浅間大明神に付属する神宮寺を表すものであろう。したがって、この碑に刻まれた銘文は、延命寺とされる寺の性格を表したものであり、延命寺は、浅間大明神の別当寺であることを示したものと考えられる。

 浅間大明神については、すでに本シリーズの6回目で触れたところである。浅間大明神の所在した位置から、信州側の人達からも篤い信仰があり、御代田町の真楽寺も、古くから浅間大明神の別当寺とされていた。このため、延命寺と真楽寺は、互いに別当寺としての立場を主張して激しく争った。その結果、特別の計らいで、両者ともに別当寺として認められた経緯がある。

 碑は、自らその由緒や来歴を語ろうとしない。関心と思考を重ねて語りかけたとき、はじめてその由緒や来歴を語り始める。数奇な運命を辿る延命寺の碑は、延命寺の性格や真楽寺との争いなどを反映させて、おそらく、鎌原宿の家並みの連なる本通りから、延命寺に入る参道の脇に建てられたものであろう。

※この記事は広報つまごいNo.570〔平成12年(2000年)5月号〕に記載されたものです。

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