松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(四十八)

田代地区の両墓制

▲両墓制の「埋め墓」とみられる遺構
(今井東平遺跡)

 かつて、田代地区には、両墓制とされる墓制があった。それは、一人の死者の墓に、埋葬する墓(埋め墓)と、霊魂を祀る墓(詣り墓)の二つを設けることである。現在、こうした墓制は、群馬県下で、51例が知られているが、全国的には、近畿・関東地方に多く、東北地方には少なく、九州地方にはほとんどみられないという。

 田代地区の両墓制は、埋め墓を“ボチ”と呼び、集落の中心部から1キロ程離れた吾妻川の河原に設けられ、そこには墓標など一切ない、共同墓地的な性格をもつ場所であったと言う。これに対し、詣り墓は“オハカ”と呼ばれ、集落内にまけごとに造ることが多かったとされる。

 そして、その埋め墓は埋葬した上に、丸石を山と積み上げ、その上にガンブタを置き、四方には縄を張る。これは、墓をあばく山犬をよけるためだと言う。これに対し、詣り墓は、葬儀の翌日に、将来墓石を建てる場所をあらかじめ定め、そこに一握りの土を移し、年忌などの際に石塔を建てたものと聞く。

 こうした両墓制は、なぜ行なわれたのだろうか。それは、穢れた遺がいを葬った場所を忌み避け、清らかな穢れのない所を、祭祀の場所として祀ろうとする「霊肉別留」の考えから生まれたものとされる。おそらく、高度の仏教のもつ死後観に基づくものであろう。

 ところで、こうした両墓制は田代地区だけのものではなかったらしい。平成9年度に実施された今井地区「東平遺跡」の発掘調査では、一辺1、2メートル前後の方形石囲いの穴が数ヶ所発見された。その中には石を詰め込んだものもあり、明らかに墓穴であり、両墓制の“埋め墓”とみられた。造られたのは近世の前半と考えられる。

 田代地区の両墓制は、火葬が一般化された現在、全く行なわれていない。しかし、かつて行なわれていたこの墓制は、群馬県内の事例の中にあって、一つの典型とされる。また、こうした両墓制は、田代地区だけのことではなく、広く嬬恋村全体の墓制であった可能性もあり、嬬恋村の精神的文化遺産としても極めて貴重である。

※この記事は広報つまごいNo.571〔平成12年(2000年)6月号〕に記載されたものです。

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