松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(五十)
『片栗粉』の商標
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▲幸助が考案した擦りおろし機
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商品の名称は、その原料によることが多い。例えば、早春のころ可憐な花を咲かせる“カタクリ”の地下茎からとった良質の澱粉を「カタクリ粉」と言い、“クズ”の根からとった澱粉を「葛粉」と言った。それでは馬鈴薯からとった澱粉は、なんと呼ぶべきであろうか。「芋粉」とでも言うべきところ、嬬恋ではそうは呼ばなかった。
明治16年(1883年)大笹村の大日本農会通常委員、岩上八郎は次のように記している。
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嬬恋村の馬鈴薯生産の開始については、すでに本シリーズNo.7に記した。以来その生産は飛躍的に増加し、明治8年の様子を記した『上野国郡村誌』によれば、田代村ではおよそ6,600貫、次いで大笹村では4,500貫を生産するなど、西部地域を中心に嬬恋を代表する農作物となった。しかし、それは片栗粉の生産・出荷によるところが多かった。
すなわち、干俣村の「明治7年物産取調書上帳」によれば、片栗粉の売上が420円75銭となり、換金作物の中で第一位となったが、こうした傾向は西部地域を中心に嬬恋村全域にみられた。この状況を『干川多重郎業績書』では「土地ノ物産タル片栗粉ヲ買イ占メテ、高崎方面ノ市場ニ販売シ、以テ地方開発ニ資スル所アリ −後略−」と記している。
明治初年、すでに一村で数千貫を誇った馬鈴薯の生産は、水車あるいは手動によって、片栗粉として生産・販売された。村中を流れる水路は、片栗粉製造過程に発生した泡によって覆われたとも伝えている。
もしかすると、馬鈴薯を原料とする『片栗粉』の商標は、嬬恋で始まったのかも知れない。
※この記事は広報つまごいNo.573〔平成12年(2000年)8月号〕に記載されたものです。
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