松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(五十二)

万座温泉の『礫石経』

▲発見された石礫経

 仏教の予言説“末法思想”によれば、1052年から世は末法に入ると信じられていた。このため仏法滅書を恐れた人達は大切な経典を書写供養し、これを埋納して56億7千万年後の修行中の弥勒出生の際に備えようとした。いわゆる経塚のはじまりである。その後、経塚の構築は、極楽往生や出離・解脱の願い、現世利益を求めるためのものへと変化し、江戸時代まで続けられた。

 経塚には、経典や願文が、紙や銅板・瓦などに書かれて奉納されたが、他に、石に一字、あるいは何行にもわたって墨で書くことも行われた。これを“礫石経”と呼んでいる。

 8月24日、社会教育課黒岩則行係長、資料館横沢貴博主査と共に万座にある村指定史跡「熊四郎洞窟」を訪ねた。その際、礫石経を発見した。発見された石礫経は、人頭大の河原石に経典を墨書したもので、大小8個を確認した。その文意は、小池茂治氏を交えて解読中であるが、現在のところ般若経の中の密教経典の代表的なものである“理趣経”と見られる。これが書かれた時期は、筆跡・筆法などから、今から数百年を遡るものと推定される。

 礫石経の発見された熊四郎洞窟は、薬師堂から遊歩道を山頂方向に進む道沿いにある。洞窟とされているが、実際には石英粗面岩の岩塊の東南面に形成された間口3.9メートル、奥行き3.25メートル、入口部の高さ5メートルほどの岩陰である。奥に向かって狭まる三角形状の平面部分の面積は、約12平方メートルに満たない。その状況などからして、指定理由にみる弥生時代人の生活跡とは到底考えられない。

 古く、吾妻山(四阿山)から白根山に至る嬬恋村側の連峰を“万座山”と呼んでいた。その万座山の深山幽谷は、熊野や白山信仰の霊山とされ、いわゆる山岳信仰の一拠点でもあった。そのため、修験道の行者である修験者(山伏)の跋渉するところであった。

 そうした修験者が、万座温泉の湧出や噴気を当然見逃す筈はない。そして、その異様な光景に神仏の霊を感じ祭祀を意図したに違いない。そこで、礫石経を奉納したものと考えられる。

 「万座」とは満願のことである。古くから今に至るまで、万座の湯で心身を癒された人は多かったに違いない。

※この記事は広報つまごいNo.575〔平成12年(2000年)10月号〕に記載されたものです。

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