松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(五十四)

浅間山について

▲元禄国絵浅間部分図
(県立文書館蔵写し)

 浅間山の名称は、西方にある三ツ尾根山(黒斑山)、中央に位置する前掛山、その山頂にある釜山などを総称したものである。その構成は、三ツ尾根山などの第一外輪山、第二外輪山である前掛山、そして現在の火口丘の三つの火山(三重式成層火山)により成り立っている。

 最高位にある釜山の標高は2,568メートルを数え、その広がりは東西約15キロ、南北約35キロにも及んでいる。裾野は嬬恋村のある北側は広く緩やかに展開する。その端麗な姿は、上信国境の中にあって、一段と目立つ存在である。

 火山としての活動を始めたのは、今から十数万年前と考えられている。以来、山体崩壊などの噴火を繰り返しながら今日に至っている。記録では、今から約1,300年前の白鳳13年(685)の大噴火が最初で、以来百十数回を数える。その内主な噴火は、白鳳年間のものの他、天仁元年(1108)の噴火と、天明3年(1783)の噴火である。

 このように噴火を繰り返す浅間山に対して、人は神意・仏霊を感じない筈はない。14世紀の中頃に書かれたと思われる『上野国神名帳』の「総社本」には「従一位浅間大明神」が明記されている。また、『加沢記』には、「…白山権現を敬い奉る。信州浅間、吾妻両山の御権現御一体なり、…」とあり、浅間山に白山権現を祀ったことを記している。

 ところで、その浅間大明神はどこにあったのだろうか。『元禄国絵図』によると、三ツ尾根山の中腹に、朱により社殿が描かれ、その脇に「浅間大明神」と墨書されている。浅間山を神格化した浅間大明神は、浅間山中腹の嬬恋村地域内に存在していたのである。

 そして、その信仰は、本地垂迹の思想によって仏教と結びついて、浅間山北麓一帯に広まったものと思われる。浅間大明神とその別当(神宮寺)である延命寺の存在は、その事実を雄弁に物語っている。しかし、天明3年の噴火に起因する“押出し”はそうした事実を跡形も無く消し去ってしまったのである。

※この記事は広報つまごいNo.577〔平成12年(2000年)12月号〕に記載されたものです。

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