松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(五十六)

蛇の飾りの付いた土器

▲蛇体把手付深鉢(今井東平遺跡出土)

 日本では、古くから甲・乙・丙などの十干と、子・丑・寅などの十二支を組み合わせて干支と呼び、年を表していた。今年は辛巳の年であり、一二支で言えば巳すなわち、蛇の年なのである。薄気味悪い蛇が、なぜ十二支の中に入るようになったかは明らかでない。多分、古代人にとっては蛇は身近なものであると同時に、特別な存在だったのであろう。

 嬬恋村に住んだ人が、最初に蛇を意識し、それを形に表したのは、今からおよそ4,500年前の縄文時代にまで遡る。

 平成7年の7月、今井在住の市村君雄さんは、農免道路、側溝工事の現場で、土器片の埋まっているのに気づいた。関係者との共同調査の結果、縄文時代の住居跡の一部を確認すると共に、3個の土器を発見した。

 発見された3個の土器の内、1個は高さ38.5センチ程の深鉢形土器で、その口縁部には、鎌首をもたげた蛇の頭が表現され、それに続く幾分肥厚した口縁には、蛇の胴体を思わせるものがある。また、頭部分の下側には、特に斜状の文様が蛇腹を示すかのように付されている。さらに、頭部分の下部と、その裏側には2個の円文が、まるで目玉の様に表現され、この土器の神秘性を増している。深鉢土器の口縁に、大きくトグロを巻いた1匹の蛇が、鎌首をもたげた姿で表現されているのである。それは、その中に入れられた大切な食物を守っているかのようである。

 長野県と山梨県にまたがる八ヶ岳山麓では、縄文時代中期になると、蛇の装飾のついた土器が流行した。これについて「春になると顔を出す蛇を、縄文人は大地の母神の使いとみなし、新しい生命が再生され、豊かな食物が得られるように祈ったため」とする説もある。

 群馬の地で、これほどまでにはっきりとした形で蛇を表したものは他に例をみない。今井の「東平遺跡」で発見された蛇の飾りを付けた土器は、遠い縄文の時代、私達嬬恋の地と、八ヶ岳山麓の地との関連を示唆していることは確かである。巳年に生きる私達に、何かを語りかけているようである。

※この記事は広報つまごいNo.579〔平成13年(2001年)2月号〕に記載されたものです。

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