松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(五十九)

常林寺の本堂

▲『大隅流の欄間彫刻』

 常林寺は、吾妻郡を代表する名刹である。その歴史は古く、少なくとも13世紀前半(南北朝初期)にまで遡るようである。しかし、その後の変動の世相の中に衰微し、確固たる社会的地位を築くのは、中興の期とされる今から四百数十年前の享禄年間の事とされる。

 その中興された常林寺の伽藍は、天明3年の“浅間押し”によって跡形も無く消失してしまった。しかし、奇しくも明治43年、川原湯の吾妻川河原で発見された常林寺の梵鐘には、名刹に相応しいものがある。

 災害後、常林寺は、流失跡の山際に仮家(草庵)を結び、荒廃した地域の救済に励んだが、寒風には耐えがたく、寛政2年(1790)今井村に仮の堂宇を建てそこに据拠を移した。

 しかし、今井村の常林寺は、あくまで仮のものであった。そこで、常林寺22世法泉和尚は、檀信徒に計り、常林寺再建を志し、各戸5人半のオテンマと、542文の寄付金。別に毎戸日々2文ずつ3ヵ年にわたる拠出金などによって、文政7年(1824)現在地に、間口九間、奥行き七間の本堂を中心とした伽藍を再建したのである。「上棟銘」には、再建への苦心と造営の喜びが記されている。

 転じて、この堂宇再建には、信州上諏訪の矢嵜国太郎が大棟梁となり、後見役として矢嵜善司、昭方があたったことが「上棟銘」によっても明らかなのである。

 ところで、この矢嵜一門は、当時、諏訪における“大隅流”の技術集団として著名で、建築に彫刻に抜群の技をもち、国指定重要文化財の諏訪大社下宮春宮の造営にもあたった。上州では、主に鏑川の谷を舞台に活動し、係わった寺社は20余ヵ所に達した。中でも下仁田町の諏訪神社社殿は、町指定の重要文化財となっている。

 天明3年の災害後、法泉和尚と檀信徒の尽力によって、再建された常林寺の本堂は、災害復の記念物であるが、骨太に構成された屋組、見事な組物や欄間の彫刻に何故か印象深いものがある。それは、建築と彫刻が一体化された大隅流の技によるものであろう。

※この記事は広報つまごいNo.582〔平成13年(2001年)5月号〕に記載されたものです。

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