松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六十一)

『丁石』百番観音像

▲紅葉館脇の
『百番千手観音菩薩像』

 旧鹿沢温泉の紅葉館脇に、半肉彫りの石造千手観音菩薩像が蓮華を象った台座の上に、慈悲に溢れたお姿で立つ。総高約245cm、像高は約130cmを測る。

 台座の正面には「百番」とある。その左側を「願主 湯本中」とし、右側には「世話人新張邑」とあり、山口柳太など8人の名を刻んでいる。背後には、「造工信陽高遠之産仲山暉雲」

 そして、造立の時として「明治二己巳歳秋八月辛酉」とある。このことによりこの像が、百番目の観音像として、願主を湯本(鹿沢温泉)住人、世話人を東部町新張の8人として明治2年に、信州高遠出身の石工仲山暉雲によって建てられたことは確かである。

 ところで、この千手観音像の造立には、信州側の鹿沢温泉に対するあこがれと、当時の“丁石”とされる道程設置の風習、そして観音信仰の流行がその背景にあったことが考えられる。

 丁石は江戸時代中期以降の、庶民の旅の流行のなかで社寺や旧跡への路傍に、一丁ごとの道のりを記したものである。嬬恋村内では、吾妻山の鳥居峠からの登山道にもその痕跡が認められる。

 また、観音菩薩は、民衆を救済するために多くの能力や力を必要とすることから、千手観音や十一面観音など、三十三体もの変化観音を出現させた。それに因んで、西国三十三番や坂東三十三番そして秩父三十四番の札所が設置され、やがてそれらを併せて、百ヵ所の観音を巡拝する“百体観音巡り”の信仰が登場する。

 そうした中にあって特に、東部町新張から鹿沢温泉に造立された百体観音は、聖観音や千手観音をはじめとした“六観音”で、衆生を地獄や餓鬼などの迷界から救済すると言う有り難い観音菩薩たちであった。

 旧鹿沢温泉紅葉館脇の千手観音菩薩像は、東部町新張から鹿沢温泉までの百丁(約3里)の行程の最後の丁石として、また、百体観音の百番目の観音像として造立されたものなのである。それには、幕末から明治にかけての庶民の息づかいを感ずることができるのである。

※この記事は広報つまごいNo.584〔平成13年(2001年)7月号〕に記載されたものです。

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