松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六十二)

大前という地名

▲大前の家町並み(昭和24年撮影)
〔「写真でみるふるさと嬬恋のあゆみ」より〕

 大前の地名については『上野国郡村誌』では、「建久4年(1193)鎌倉右大将(頼朝)時、幕下(家来)本村ニ厩ヲ置キシヨリ御厩村ト云(ハ)レシヲ、改称シテ大前トスト云(ウ)」とあり、大前の地名の由来を記している。『嬬恋村誌』もこの説を採用している。 ところで、源頼朝は『上野国郡村誌』に記されているように、建久4年、三原庄(浅間山麓)で、軍事訓練を兼ねた集団的な狩猟である“巻狩”を行なったのであろうか。実は、その歴史学的事実は存在しないのである。したがって、前に記したような学説は成立しないことになる。

 三原の下屋家文書によると、貞治元年(1362)の、所領を譲り渡すことを記した文書の中に「おうまいのいやとう五郎」応永20年(1413)のものには「大まやの五郎太郎」そして応永35年のものには「大まやのひやうゑ入道」などの人名がみられる。当時の名字は地名に基づくとされる事からすれば、記すまでも無く“おうまい”“大まや”が地名であることに違いない筈である。

 それでは、おうまいとか大まやとかの語源は何だろうか。“おう”は、古語の“オオキ”を形容詞化したもので、物事の大きい事をさすと観てよいだろう。それでは、“まや”“まい”とかは何だろう。前橋の地名は、古く“まやばし”が音韻の変化で“まえばし”となったと言う。

 それと同じ事で、“まや”が“まえ”に変化したもので、語源的には“まや”にこそ意味があると考えられる。

 『国語大辞典』などによると“まや”は馬屋も指すが、一般的には両下または真屋を言う。特に、両下は、屋根を棟の両側へ葺き下ろした切妻造りの家のことで、古くは立派な家の事を真屋と言ったともある。

 大前の歴史は、少なくとも南北朝の時代にまで遡り、その頃の譲状に名を残す武家が居た事は確かである。そして、その館は、おそらく両下(真屋)であったことも確かであろう。

 大前と言う地名は、大きな両下があったことに由来するものであろう。

※この記事は広報つまごいNo.585〔平成13年(2001年)8月号〕に記載されたものです。

(六十一)『丁石』百番観音像 へ   (六十三)天仁元年の大噴火 へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る