松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六十三)

天仁元年の大噴火

▲大笹集落が載る追分火砕流堆積物
(長井川原から撮影)

 浅間山は、これまで何回となく噴火を繰り返している。『日本噴火史』によると、天武天皇の白鳳14年(685)を最初とし、天明3年(1783)までに41回の噴火をあげている。もちろん、それ以前にも山の形を変えるような大噴火が何回となくあり、それ以降も、日常生活の中で感知されたものだけでも、数え切れないほどである。

 こうした中で、特に記録に残る大きな噴火としては、白鳳14年と天仁元年(1108)そして、天明3年の三つがある、この内、天明3年の噴火については、既に知られている所であるが、天仁元年の噴火については、意外と知る人は少ない。

 平安時代中頃の朝廷の儀式や、当時の政治や社会の様子を記したとされる中御門右大臣藤原宗忠の日記『中右記』によれば、上野国(今の群馬県)からの上申書として、「(浅間山は)…今月21日より大爆発をおこし、猛火山嶺を焼きその噴煙は天に達するほどであった。砂礫・わい燼(火山灰)が国中に降り注ぎ、国庁(国の役所)の庭にも積もり、田畑はすべて壊滅した。一国の災いとして、未だこのようなことはなかった。…」と記している。

 事実、近年の発掘調査によると、この時の噴火によって堆積した軽石や火山灰は、前橋や高崎など県の中央部分において、10〜20センチにも及んでいることが判明している。おそらく、この堆積時には、その厚さは倍にも達していたものと思われる。そして、この噴火は天明3年の噴火と同規模か、あるいはそれ以上であったと推定されている。

 ところで、この噴火の際、山頂から嬬恋方向と、軽井沢方向の二方向に大規模な火砕流が発生した。これを“追分火砕流”と呼んでいる。嬬恋方向に押出した火砕流は、尾根を削り谷を埋め、大笹方面に向かって広範囲に流れ下り、その厚さは平均8メートルにも達したと推定されている。

 この際の災害については、全く不明である。他方、大笹の集落などは、この時に形成された地形上に発達したものとされている。もし、火砕流の発生と大笹宿の発達が逆であったら、その被害には計り知れないものがある。

※この記事は広報つまごいNo.586〔平成13年(2001年)9月号〕に記載されたものです。

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