松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六十五)

吾妻山登頂の記

▲頂上部にある『岩室』

 10月25日、資料館横沢貴博主査と筆者は、上下水道課宮崎芳弥係長の案内で、念願の標高2,354メートルの頂上に立つことが出来た。山容を覆おう豊かな樹海に対し、山頂部はむき出しの岩塊による屹立した別世界であった。人々は古くからここを神々や、祖霊の宿る聖地として認識していたのである。

 山頂には厳しい風雪に耐えて祠などが点在していた。そうした中でひときわ大きく上州宮と信州宮の二社が祀られていた。いずれも戦後の造営と思われるが、周りを囲む石塁には、古さを感じさせるものがあった。古くからのものとしては、板状の石を積み上げて天井を架し、床には石敷を施した岩室があった。多分、修験者(山伏)の籠もったものであろう。

 この吾妻山は、日本古来の山岳信仰と、外来の仏教などの混合によって成立した修験道の霊山・霊峰なのである。このため、ここを修行の場として“霊力”を求め幾多の修験者が捨て身の登攀を行なったものと思われるが、その始まりの時期は定かでない。

 江戸時代の中頃に書かれたもので、戦国時代の吾妻・利根地方の様子を比較的よく伝えたものに『加沢記』がある。それによると「……本朝の元祖にて伊弉諾尊を白山権現と敬奉る。信州浅間・吾妻屋両山の権現御一躰也。……」とあり、吾妻山に白山権現を祀っていたことを記している。おそらく戦国の頃から、その信仰が、高まり広まったものと思われる。

 ところで、白山権現を祀る白山は、石川・岐阜両県に跨る標高2,702メートルの信仰の山として知られている。伝記によると、開祖である泰澄は、8世紀の頃この山頂に登り、十一面観音、聖徳観音さらに阿弥陀如来を感得したと言う。以来、その信仰は北陸地方一帯に広まり、やがて全国的に普及し、ついには熊野修験道に次ぐ勢力に発展したとされている。

 吾妻山に籠った修験者たちは、その厳しい修行によって霊力を会得したと思われる。そして、その霊力は里にあっては、病魔を退け邪悪を避け福を招くなどの、現世利益のための呪力として、多くの人々のニーズに応えたに違いない。

 吾妻山は、嬬恋の精神文化の一拠点であったのである。

※この記事は広報つまごいNo.588〔平成13年(2001年)11月号〕に記載されたものです。

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