松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六十六)

鎌原城の今昔

▲鎌原城跡の俯瞰

 浅間山北麓の末端、鎌原区の本村と吾妻川との間には、南から北方に伸びる尾根がある。この尾根は俗称“うしろの沢”によって大きく東西に二分されている。東側には浅間・白根火山ルートが走り、それに沿って民家や耕地が開けている。西側の地は、畑や山林となっている。その北・西端は吾妻川の断崖で、東側はうしろの沢の深い窪によって区画されている。鎌原城はこの要害の地に所在する。

 その城郭は、尾根の先端部を利用したもので、その北端に、東及び北側を一段低くした平場を付した本丸を置く。そして、それより南方に向けて漸次、二の丸、三の丸を配置し、各曲麟は堀切によって区切られている。その全長は南北約400メートル、総面積は約36,000平方メートル(3.6ヘクタール)周辺の低地からの高さは約30メートル前後を計る。

 大手(表口)は、三の丸南側堀切の中央部に、食い違い構造により設けられていたとされるが現状では明らかでない。搦手(裏口)とみられるものは、本丸の北端にあって急坂に連なっている。他に城内施設については、不明であるが、県内百数十ヵ所とされる古城跡の中にあっては、中規模の“梯郭式の平城”として知られている。

 城主の鎌原氏は、天和元年(1681)沼田藩家老、鎌原縫殿重継の『言上書』によれは「私の先祖は、三原(荘)を支配し、頼朝の時には鎌倉に勤め、その後は上杉氏の武士となり、次いで信玄に仕え、武田氏滅亡後は、徳川幕府に属し、代々沼田の真田氏に仕えた」と記している。勿論、この記述をそのまま事実とする訳にはいかないが、鎌原氏の在地領主としての卓越した性格を示すものである。

 この鎌原氏の城としての鎌原城は、応永4年(1397)の築城と伝えられている。以来、戦国時代を中心に存続し、天和元年の“一国一城令”によって破却されたものとされる。この間二百十数年、武田信玄の吾妻地方侵攻の拠点として常に重視された。特に、永禄3・5・6年(1560〜1563)、『加沢記』によれば、上杉方と武田方の勢力争いの中にあって、激しい争奪戦が繰り広げられたと記している。

 今、鎌原城は、昔日の面影を其処此処に留めながら、訪れる人も無く初冬の陽を受けて静まりかえっている。

※この記事は広報つまごいNo.589〔平成13年(2001年)12月号〕に記載されたものです。

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