松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七十)

近世文学の中の嬬恋(その一)

▲蜀山人(大田南畝)
〔文学書より転載〕

 川柳と並んで江戸文化を代表するものに狂歌がある。狂歌は世相に対する皮肉や風刺を滑稽に表現したもので、代表的作者に大田蜀山人がいる。蜀山人は大田南畝または四方赤良とも呼んだ。江戸の下級御家人の家に生まれたが、学問で身を立てようと志し、『寝惚け先生文集』とされる作品を出し、賄賂で動く幕臣の腐敗を攻撃するなどして、江戸町民の共感を得た。続いて天明3年には『万載狂歌集』を刊行し、狂歌作者として名声を一段と高めた。他に洒落本・黄表紙・噺本なども出版し、天明期の江戸文学の中心的存在となった。

 その後、彼は一時狂歌界から遠ざかっていたが、文化年間に至って、再び狂歌界に復帰するや、忽ち昔日の勢いを取り戻した。しかし、文政6年に死去した。

 この江戸町民から偶像的敬愛を集めていた蜀山人が、嬬恋の地を訪れたかは残念ながら記録上では認められない。しかし、嬬恋の地に特別な関心を寄せていたことは確かである。それは彼の随筆集『半日閑話』の中に「浅間嶽下奇談」(本シリーズNo.27)とされるものがあり、文化2年頃里人に聞いた話として、天明3年の浅間山噴火によって埋没した村の奇妙な話を載せている。また、文化13年大笹宿で問屋を経営する傍ら名主を務めていた、黒岩長左衛門(侘澄)の求めに応じて、「大笹駅浅間碑」(本シリーズNo.30)の撰文と染筆を行なっているからである。

 ところで、蜀山人は当時稀に見る高名な文人であって、彼に書を乞う者が多く、ついには偽筆者をおいてこれに備えたと言う。そうした蜀山人に染筆はともかく撰文まで行わせた「大笹駅浅間碑」は、いかに特異なものだったかが伺い知れよう。

 その背景には、侘澄の存在が考えられるのである。侘澄はこの地方きっての狂歌作者であると同時に、その道の有力な指導者だったのである。そうした彼の存在が、高名な蜀山人をして浅間碑の撰文と染筆に連なったものと思われるのである。

 「浅間嶽下奇談」や「大笹駅浅間碑」は、まぎれもなく江戸後期を代表する文学者、蜀山人に係わる作品であり、その背後には嬬恋村を中心にした活躍した、侘澄とされる狂歌の作者がいたのである。江戸時代後期の嬬恋村は、狂歌に代表される江戸文学の一核心地であったのである。

※この記事は広報つまごいNo.593〔平成14年(2002年)4月号〕に記載されたものです。

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