松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七十一)

近世文学の中の嬬恋(その二)

▲『方言修業金草鞋』の部分
(斉久保〔西窪〕・中井)

 寛政2年(1790)幕府は、風俗取締の一環として、「出版禁止令」を出して、洒落本などの好色本の出版を禁止した。このため、題材を遊里以外の所に求め、人間の言語・動作・習俗の可笑しさを描く“滑稽本”が流行るようになった。

 こうした情勢を背景にして、十辺舎一九の活躍があった。一九は、駿府(静岡市)の与力の家に生まれ、江戸で武家奉公する傍ら、文学者としての道を歩んだ。寛政6年(1794)からは版元の蔦屋の居候となり、この間有名な『東海道中膝栗毛』を書き、地方の風俗・習慣・方言などの可笑しさを紹介し、ふんだんに笑いを提供した。

 その一九が、『東海道中膝栗毛』の姉妹編として、『上州草津温泉道中膝栗毛』を著作出版したのは文政2年(1819)の頃とみられるが、それには「大笹の駅にいたる。此処いたって繁盛の地にして、商家あまた軒を連ね、旅籠屋にも中尾(屋)といへるが殊に賑わしくみえたり。」と記している

 また、田代の宿について、弥次と北八が目の不自由な者と、耳の不自由な者になりすまし、宿泊する場面があるが、この地域の方言や訛りを取り入れるなどして、戯曲風にしてしかも巧妙である。

 一九の著書の中にはこの他、『諸国道中金乃草鞋』がある。これは、文政3年の著者出版とみられ『方言修業金草鞋』の13冊目のものである。挿画は当時一流の浮世絵師である歌川国丸が担当している。その中には、鳥居峠を越して、嬬恋を経て草津への旅の様子も書き、特に前回(その一)でも紹介した蜀山人撰文・染筆の「浅間碑」全景と碑文及びその経緯を示す文も載せている。

 また、大笹・大前そして斉久保(西窪)・中井(三原の一部)の見出しを立て、大笹について、大笹の宿そして中屋が大変良いとか、宿の入り口に関所があるとか書いてある。

 更に、フィクションとして猥談風な文を取り入れ、江戸時代後期の庶民大衆の感覚を面白可笑しく、そして生き生きと描き出しているのである。文学史上の日本人の“笑い”の原点をここにみるのである。

 江戸時代後期を代表する文学者十辺舎一九もまた、蜀山人と同様に嬬恋村に深い関心を寄せていたのだろう。

※この記事は広報つまごいNo.594〔平成14年(2002年)5月号〕に記載されたものです。

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