松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七十三)
干川小兵衛のこと
|
▲伝干川小兵衛宅(現市場建一郎氏所有)
|
干俣村の草分とされる小兵衛家は、貞享3年(1686)の干俣村の「検地帳」によれば、所有する畑は合わせて5町3反7畝22歩とある。1町前後が大半を占める干俣村の土地所有の状況からすると、飛び抜けた土地の所有者であり、時に、百姓でありながら名字を密かに名乗る程の家柄であった。
したがって、その名前も代々世襲され小兵衛と称した。三代目を名乗る小兵衛は、天明3年(1783)浅間山の噴火の時には60歳に達していたが、この三代目小兵衛こそ、未曾有の災害の際、間髪を入れず難民救済に立ち上がったその人であった。
幕府の勘定奉行根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見聞書』によれば、「干股(俣)の名主の小兵衛という者は、泥押しの節、生き残った者を引き取って介抱し、小屋を建て、これまでも滞りなく日々米や麦などを援助した」とある。
また、「干俣区有文書」の中には、小兵衛が代官の照会に対して、救援の際に実際に負担した品目と数量について記したものがある。それには、
一、米60俵 但し三斗七升入 (以下略)
など、9品目とその数量の記載がある。そして、これにより自分の貯えはなくなり、以後、合力(寄付)はできなくなったとも記している。
このように小兵衛は、私財をなげうって難民の救済にあたったのである。このことはやがて幕府の知るところとなり、小兵衛は、大笹村の長左衛門、そして大戸村(吾妻町)の安左衛門と共に、銀10枚と、一代帯刀、永代苗字を使用することが許された。分限者として知られる長左衛門、安左衛門はともかく、百姓小兵衛としては破格の扱いを受けたのである。その行為が如何に卓越していたかを証するものであろう。
災害が発生したときの救助活動は、一刻でも早く手を打つのが原則である。しかし、とかく役所(官)の対応は遅れがちである。幕藩体制下にあっては尚更のことであった。罹災者に対しての衣食住の最低の援助は、決して猶予を許されるものではない。こうした中で民間人干川小兵衛のとった行為は、どんなにか罹災者の絶望的な心を癒し、そして、生きる希望を与えたか計り知れないものがある。
※この記事は広報つまごいNo.596〔平成14年(2002年)7月号〕に記載されたものです。